生きることが、十字架を背負うということ
重松清さんの作品はあまた読んでいます。 この作品は、ある事件をきっかけに、いじめの問題が激しく議論された時に、 読みました。 親友だと思っていない同級生がいじめで自殺をし、 被害者の彼に親友だと思われていた主人公と、彼に思いを寄せられていた女の子が、 罪の十字架を背負って生きていくという内容です。 これは、いじめを知っていながら、「傍観する」ということ、「第三者に徹する」という いじめの残酷さと背景に警鐘をならしている作品といえます。 一見、どうして遺書に名前を書かれてしまっただけで、これほどに重い十字架を 背負わなければならないのだという気持ちにさせられるくらい、「責め」の 重さが主人公と女の子に襲い掛かってきます。 たかだか十やそこらの年齢で、まわりをまきこんで、 いじめの流れを変え、たいして仲良くもない友人を救い出すエネルギーがあるのか? それは、大人の私達が十分しんどいことだと分かっています。 けれど、だからこそ、著者は書いたのだと思います。 「大して仲良くない」、「勝手に想われていただけ」。それこそがポイントで、 それこそが、読んでいる者達の良心に最も訴えかけるところなのではないでしょうか。 誰もが「彼」になってしまうかもしれない世界で、 どうせ十字架を背負って生きていくのなら、生きていくこと自体が傷つけることで、 苦しいことであるなら、ひとりひとりの十字架で手一杯だから・・などと思わずに、 みんなで大きな大きなひとつの十字架を一緒に持つという選択肢があることに、 もうそろそろ気づいてもいい頃なのではないでしょうか。
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