木陰に忍び咲く隠花のように湿って見えるが、したたかな情念と女の強さを秘めたおはんを描いた、名匠・市川崑監督の名作「おはん」 - おはんの感想

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おはん

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木陰に忍び咲く隠花のように湿って見えるが、したたかな情念と女の強さを秘めたおはんを描いた、名匠・市川崑監督の名作「おはん」

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市川崑監督は、27年間に渡って、この「おはん」の映画化に執念を燃やし続けてきたそうです。 映画完成後の試写会の舞台で、市川崑監督は、「これは私の最も好きな作品です。"おはん"は人間の原点を示すものだと言えるし、映画化が成功するかどうかは、全て私の責任です」と情熱を込めて語り、この宇野千代原作への思い入れの深さを感じさせました。

宇野千代原作の"おはん"は、第10回野間文芸賞、第9回女流文学賞をそれぞれ受賞した、今や昭和文学を代表する名作ですが、この"おはん"は、原稿用紙150枚、文庫本にして100頁ほどの短編小説であるにもかかわらず、51歳で執筆を開始して完結するまでに、10年の歳月を要したといいます。

「よう訊いてくださりました。私はもと、河原町の加納屋と申す紺屋の倅でございます。」という一節で始まるこの小説は、宇野さんが徳島のとある古道具屋の男から聞いた話がもとになって、徳島の方言を主として、宇野さんの故郷、岩国の訛りと関西訛りが一緒になった作り物の方言で、そして場所も時代も定かではありません。 モノローグの本人の名前(映画では幸吉)さえも出て来ません。 ただ、何となく、大正の初め頃の京都辺りという感じですが、映画化に際しては、時代も場所も細かく特定せず、"ある種の幻想的世界の中での人間の物語"というようになっています。

映画「おはん」の冒頭のシーンは、部屋の暗がりに白く動く女の手から始まりますが、画面は色調を強く抑えて薄暗く、終わり近くになって、やっとノーマルの色調になります。 市川崑監督は、"光と影の魔術師"と言われるだけあって、画面の隅々にまで、色彩と照明、特に反射光の効果を精密に計算して撮っているように思います。

原作の小説は、"批評の神様"と言われた小林秀雄をして「言葉が言葉だけの力で生きていこうとしている」と言わしめているだけに、その独特の文学的香気、雰囲気を映画化する事は、容易な事ではなかったように思われます。 しかし、市川崑監督は「この小説をどう映像にするかが勝負だ」と挑戦的に語ったと言われていますが、原作者の宇野さんは、映画を鑑賞後「映画と小説は全く別ものですね。しかし表現の方法が違うけれども、目指すところは同じだと思うんですよ。"おはん"は、その目指すところがぴったりと合った」と感想を述べられ、いみじくも、原作の小説と映画化作品とのあるべき関係を簡潔に言い表していると思います。

宇野文学の香気をいかにして、そのまま映像に移すかに心を砕いた市川崑監督は、"人形浄瑠璃風の幻想世界を視覚化"して、小説と映画の混然一体化に成功していると思います。 おはんを演じた主演の吉永小百合は、この役について「私とは全く違った世界に生きる女性。幻想の世界に、自分が入って演じているって感じですね。近松の世界ってところもありましたね」と語り、このような現世とも思えぬ映像世界を、市川崑監督は作り出しています。

原作の中で「いつでも髪の毛のねっとりと汗かいていますような、顔の肌理の細かいのが取り柄でござりましたが、そこの板塀にはりつくような恰好して横むいているのでござります」と書かれたおはんを、市川崑監督は、しとやかなのにベターとした感じを肉感的にねばっこく描いていて、惚れ惚れするような演出の冴えを魅せます。

また、芸者おかよ(大原麗子)の許へ去った身勝手なおはんの亭主幸吉(石坂浩二好演!)と、七年ぶりに会った夏の夕暮れ時のシーンでは、おはんの汗ばんだうなじに滲んだほのかな色気を、斜め上からのショットで映し出したり、それから間をおいて、秋になってからの再会時に、下を向いて"ほうっと肩で息"をしたり、"ひい、というような声"をあげたり、そして会う毎に次第に恋人のように変わるおはんに縒りを戻す幸吉は、ある意味、おはんに手玉に取られ、おはんの思い通りになったとも言えます。

そして、おかよに隠れて再び世帯を持とうとした矢先に、一人息子の突然の死が訪れ、それをきっかけに、愚図な亭主と決別し、しかも恨めしい事を一言も残さない手紙で、幸吉を永遠に縛ってしまうような女の意地の強さが、おはんにはあります。 映画のラストシーンでの玉島駅での、彼女の微笑と明るい日傘は、不気味でさえあります。

このあたりの市川崑監督の演出の見事さには、唸らされます。 そして、この"おはんとおかよという二人の女の間にはさまれて、身の置きどころもない男、幸吉"を演じた石坂浩二は、"やさ男"の本当の"したたかさ"を"繊細に、なおかつ、自然で深みのある演技"で示し、彼の最高の演技ではないかと思います。 お披露目の人力車の後から走って行く幸吉の粋な角帯姿も一つの生き方なのかもしれません。

また「あては男がいるのや、男が欲しいのや」と言わなければならない勝気な"おかよ"を演じた大原麗子も、おかよという女のさっぱりとした気性の良さをうまく表現していて、見事な演技でした。 それに、何といってもミヤコ蝶々の"おばはん"がなかなか良い味を出していたと思います。 作家、宇野千代が身魂を傾けたこの"おはん"という小説を、執念とも言える情熱で映像化した市川崑監督、本当に素晴らしい映画でした。

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