人間としての未知の倫理、モラルを求めて悪戦苦闘した作家・夏目漱石の「それから」 - それからの感想

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それから

4.634.63
文章力
4.88
ストーリー
4.75
キャラクター
4.63
設定
4.63
演出
4.50
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人間としての未知の倫理、モラルを求めて悪戦苦闘した作家・夏目漱石の「それから」

5.05.0
文章力
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演出
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森鷗外の著作をしばらくぶりに読み終え、今度はかつて貪るように読んだ、森鷗外と並んで文豪と称される夏目漱石が無性に読みたくなり、初期の自然主義と対立した浪漫的な作風の「吾輩は猫である」「坊っちゃん」と学生時代の気分になって読み進み、この2作品ではどうしても消化不良の感じが拭えず、人間としての未知の倫理、モラルを求めて悪戦苦闘した「それから」、「門」、「行人」を再読しました。

夏目漱石という作家は、「吾輩は猫である」から始まって、「明暗」に至る彼の文学的な軌跡を辿ってみると、道徳と言う言葉の示すような、何か身動きの取れない、固定的なものではなく、"倫理"とか"モラル"とでも言うような、自分自身で探し求める人間としての"在り様"を文学を通して、生涯追い求めた作家ではないかと思います。

中学の英語教師である苦沙弥先生の家に住みついた捨て猫が、この家の家族や、そこに集まって来る"太平の逸民"と称されるインテリ----迷亭とか、寒月とかの言動を観察して、猫を批評家に仕立てて、他人を笑い、世間を笑い、作者自身をも笑ってみせた批評精神----、これが「吾輩は猫である」という作品の構想の骨子だろうと思います。

人間社会に責任のない、"純粋観客"、つまり一種の批評家の立場を猫によって代弁させたわけで、その何物にもとらわれない、自由な目と心を借りて、知的な俗物たる人間どもの愚かさや、滑稽さなどを拡大して描いてみせているのです。

確かに、批評家たる猫の笑いの直接の対象になっているのは、苦沙弥先生を筆頭にこの家へ出入りする迷亭や寒月などのインテリたちですが、彼らは彼らで、金田夫妻によって代表されるような、ブルジョア的な俗物や、その走狗と考えられる車屋のおかみさんを軽蔑して、優越感を味わっているというおかしさに満ちた二重構造になっています。

しかし、彼らインテリたちは、結局のところ、何の実行力もない、口先だけの口舌の徒に過ぎず、俗物性のかたまりであり、みんな、等しく猫に笑われる事になってしまいます。
シニカルでアイロニーに満ちた、漱石の人間凝視の鋭い批評眼の冴えを感じます。

この「吾輩は猫である」という作品に一貫しているテーマは、"人間や社会に対する批評精神"に他ならず、それは漱石自身の自己批評から発せられているのだと思います。

その後、「坊っちゃん」を書き終えた漱石は、ある知人に宛てた手紙に、「山嵐や坊っちゃんのごときものが居らぬのは人間として存在せざるにはあらず、居れば免職になるから居らぬわけに候。僕は教育者として適任と見なされるタヌキや赤シャツよりも、不適任なる山嵐や坊っちゃんを愛し候。大兄も御同感と存じ候」と書いています。

嘘と不正を憎む、愛すべき正義感である坊っちゃんや山嵐のような人間は、現実の社会では結局のところ退けられ、世間と妥協して、要領よく生きていくタヌキや赤シャツのような人間が、教育者としては成功するという事を皮肉たっぷりに描いた小説「坊っちゃん」は、世俗の汚さに妥協する事なく、"自分の信じる純粋性・矜持"に生きようとする作家・夏目漱石自身の潔癖過ぎるほどの倫理観を描いていたのだと思います。

ところが、その後の漱石は、「坊っちゃん」を書いた頃の潔癖過ぎる、大らかな正義感というものに安住出来なくなり、彼の中期から後期にかけての「それから」、「門」、「行人」を経て、「こころ」、「明暗」などの作品では、未知の倫理を追求して悪戦苦闘していくようになっていったのだと思います。

「それから」で、漱石が追求しようとしているのは、恐らく、"恋愛の倫理"とでも言うべきものではないかと思います。
漱石は、主人公の代助をして、彼の友人の妻である三千代に恋愛をさせるという条件のもとで、人間の自然な感情としての"恋愛"と、社会の世間一般の道徳的なルールとしての"道徳"との対立の構図の中に、"恋愛の倫理"を探ろうとした実験的な作品だろうと思います。

友人の平岡と三千代との夫婦関係は、世間的には正しいものとして誰も疑う者もいないようなものでしたが、実質的には、表面的な習慣と惰性だけのもので、互いに愛情や信頼を失っているものでした。
つまり、倫理的にみれば、決して正しい夫婦関係ではもはやありませんでした。

このような状況にある三千代に対して、代助に彼女への愛情を告白させる事によって漱石は、多分、"恋愛と結婚の倫理"というものを確かめようとしているのではないかと思います。

代助は遂に、友人で三千代の夫でもある平岡に向って宣言します。
「矛盾かも知れない。しかし、それは世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に詫まる。しかし、僕の行為そのものに対しては、矛盾も何も犯していないつもりだ」-----。

しかし、ここで漱石は、主人公の代助をこのまま、この小説の勝利者にはしていません。
やがて、破局を迎えるのに際して、代助は自分の犯した罪を詫びる事になります。
もともと、この代助と三千代と平岡の三人の関係性は、その出発において、代助が三千代との恋を、優柔不断とも言える感情で、平岡に譲った事が代助にとっての誤りの根本原因であり、自分の本心を偽った事が、間違いだった事を漱石は暗に示そうとしているのではないかと思います。

しかし、自分で自分の本心を隠していた事の間違いという点に、最後の解決を見い出そうというのでは、元来、漱石が当初、この小説のテーマとして意図していた、"恋愛と結婚の倫理"という問題の真の解決にはならないような気がします。

つまり、愛情と信頼を失った惰性的な結婚に疑問を投げかけながら、結局、最初に自分の本心を偽った過ちというような"逆戻りの解決"というものに落ち着いたところに、この作品で漱石が追求しようとした"恋愛の倫理"の不徹底で消化不良的なところがあったのではないかと思います。

その思いがあったので、恐らく、漱石はその後の「行人」という作品で、別の状況設定でこの問題を、更に深化させて追求しようとしたのではないかと思います。

「行人」の主人公一郎は、いわば、「それから」の平岡の立場の人間です。
自分の妻と弟の二郎との関係を疑わざるをえない主人公の不安と苦悩から出発しているこの作品は、「それから」と違って、"夫婦関係の内部"から、結婚生活に漱石が投げつけた、"倫理的な批判"になっているからです。

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