すべてが架空で詩的でリアルな長編小説
なぜか読むのが遅れた作品
私が初めて読んだ村上作品は「1973年のピンボール」だ。確か中学生の頃だった。そこから「羊をめぐる冒険」や「ダンス・ダンス・ダンス」など食い入るように読んだのだけど、なぜかこの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だけが抜けていた。手に取ったのは働き始めてからくらいだったと思う。
なぜ読んでいなかったのかわからないけど、逆にまだ読んだことのない村上作品があったことがうれしかったことを覚えている。もちろんそのまますぐ買って、家の本棚に並べられることになった。
もともと気に入った本は何度も読み返すタイプなので、ボロボロになってしまい買いなおした村上作品は少なくない。前記したタイトルしかり、「ノルウェイの森」しかり「パン屋再襲撃」しかりだ。
そしてこの本も2度ほど買いなおしている。読むのは遅れたものの、気に入っている村上作品のひとつだ。
同時に進行する2つの物語
この作品は、同時に2つの物語が進行していく。計算士を仕事とする「私」が生きる“ハードボイルド・ワンダーランド”と、影を奪われた「僕」が生きる“世界の終わり”だ。この2つの世界が同時進行しながら、最後複雑に絡み合う。
この2つの世界の要素はすべて架空だ。現実的なものが何一つないにもかかわらず、ストーリーがまったく破綻していない。その上、すべてが詩的で美しい。特に“世界の終わり”で象徴的に登場する獣の描写は、ダークファンタジー的要素を感じさせながらも、脆さや死といったものも感じさせる。“世界の終わり”でありながらも破滅的でないところが、村上作品らしい。
この世界の中に出てくる“計算士”“やみくろ”“夢読み”など、そのすべての言葉が私を魅了する。実際にない言葉や職業なのに、ストーリーにのめり込んでしまうほどの表現力は、さすがだと思えた。
「ねじまき鳥クロニクル」でも井戸を通りぬけたり、現実なのか夢なのかわからない場面がある。あれも個人的に好きなところだけど、あの作品には基本に普通の日常生活がある。弁護士事務所で働いていたり、失業したりとしている中非現実な場面が混ざるので、その落差が余計非日常感を感じさせてくれた。
対してこの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、すべてが架空の世界だ。どのページを開いても現実的なものはない。にもかかわらず、その世界観は確立しており、リアリティさえ感じる。
映画でも思うけれど、リアリティさえあれば、テーマがたとえ宇宙人だって超常現象だって一気に奥行きのある深みを感じさせる。それがなければただのコメディだ。
この作品は、今まで感じていたその気持ちに確信を抱かせてくれた。と言うより、この作品を読んで私がそう感じた気持ちが今に至っているのかもしれない。
“ハードボイルド・ワンダーランド”の世界
計算士として働く主人公は、ある依頼を受けることによって、今まで自分が知らなかったことの多くを知ることになる。依頼者はいろいろな研究をするうちにさまざまな発見をし、それが命を狙われる原因にもなっていた。そしてそれは主人公さえも巻き込んでいくのだが、この展開が目が離せない。さまざまな魅力的なキャラクターも登場するが、一番印象深いのは主人公の部屋を完全に破壊した二人組だ。大男とちびの二人組で、その一方的な暴力の様子は村上春樹らしい分かりやすいシンプルな文章のおかげで、一気に頭に映像化される。
村上春樹の文章で若干トラウマになっているのが、「ねじまき鳥クロニクル」に出てきた皮剥ぎボリスだ。あの緻密な描写が私の頭の中で結んだ映像は、しばらく忘れることができなかった。
この大男とちびの二人組はそれほどではなかったけれど、それでも十分に恐ろしい。情だの理屈だのがまったく通用しない生のままの暴力というか、そういうものを感じさせた。あの、主人公のパンツを下ろした場面は最悪のことを想像してしまい、読むのをやめたかったにもかかわらず目には文章が入ってくるので、頭に映像が浮かぶのをやめることができなかった。結果事なきを得たのだけど、あのハラハラ感は映画でもなかなか感じることができないものだと思う。
“世界の終わり”の世界
ここは心をなくした人々が生きる世界だ。心がないがために、怒りや哀しみもなく、平穏な日々を送ることができる。ここで生きる「僕」は、門番に影を奪われ、同時にほとんどの記憶を失ってしまった。
彼の世話をし、彼に“夢読み”という仕事を与えたのは図書館の少女だ。彼女が彼に頭骨に眠る夢の読み方を教えた。彼女もまた心がない人間だ。この少女は、私に「海辺のカフカ」に出てきた佐伯さんの少女時代を思い出させる。主人公の少年が二人の軍人に連れられて行った場所に住む佐伯さんだ。彼も佐伯さんに食事を作ってもらい、世話をされながらしばらくそこで暮らした。その暮らしぶりもこの“世界の終わり”でのそれによく似ている。
心がないからか、シンプルな部屋、シンプルのない食事、シンプルな服装とすべてが無駄がない。だけど本物だけが確かにあるその世界が、なぜか魅力的なものに思えた。ちょうど、最後はその世界を去りがたくなった「海辺のカフカ」の少年のように。
またこの世界に象徴的に現れる門番と獣も印象的だ。季節によって体毛を変え、雪の中で眠る獣の描写は、私の頭で色鮮やかな映像を結ぶ。
彼らを守る門番もまた独特の存在感だ。鋭い刃物を作ることができ、そしてそれを使い「僕」の影を引き剥がした人物だ。荒々しい印象の彼だが、しかしそこには確かにプロフェッショナルなものを感じる。この世界で唯一力らしい力を持つ存在なのだろう。だから彼は門番なのだ。
この“世界の終わり”の世界は確かに世界の果てのような土地を想像させる。でもそれは荒れ果てた土地という意味でなく、ただ限りなく地平線が広がるような、そんな世界だ。そこにぽつりぽつりと獣がいる。そして心のない人々がシンプルな服で静かに暮らす。
それを想像するだけで、なぜか心が癒やされるような気さえした。
卓越した想像力と表現力
この作品には数々の架空の言葉や職業が出てくる。しかしそれらすべてがコメディにならず、シリアスになるほどリアリティがあるのは、それらすべてに緻密な設定があるからだと思う。
まず“ハードボイルド・ワンダーランド”に住む「私」の職業は計算士だ。右脳と左脳で別々に計算しそれをトータルするだけだと一見簡単に説明されるが、ところどころにそれを使った技術も登場するし、「シャフリング」という高度な技術まで出てくる。そしてその「シャフリング」をするためのパスワードこそが「世界の終わり」だという設定には鳥肌がたった。
それだけでなく、依頼者が発明した「音抜き」という言葉や、地下に住むやみくろの話などは、冒頭から立て続けにこんな言葉が会話に普通に出てくることが個人的にはかなりツボで、ストーリーに入り込みすぎて途中で意図的にページをめくる手を止めたくらいだった。
また“世界の終わり”での「僕」の職業である夢読み。一角獣の頭骨に染みこむ夢を読むのだが、そのために特殊な処理を目に施される。その表現が詩的で、なぜか古い絵画を見ているようなそんな気になってしまった。
このような現実にはない言葉にこれほどにリアリティがあるのは、ストーリーの軸がぶれていないことはもちろん、すべてにゆるぎない設定や意味、成り立ちなどが小説に書かれていること以上に実はあるからではないだろうか。そんな気がした。
2つの世界が重なるとき
“ハードボイルド・ワンダーランド”に生きる「私」は、計算士になるために受けたトレーニングのため、脳に2重構造を持つ。そしてシャフリングを行うためのパスワードは「世界の終わり」だ。もしかしたら“世界の終わり”の世界は“ハードボイルド・ワンダーランド”の「私」の脳内の世界なのだろうか。その部分はそれまでは自分でもタッチすることができなかった場所だ。だからこそ彼が始めて“世界の終わり”を感じた時、いままでいつも見ていた風景が違って見えたのかもしれない。
“世界の終わり”の「僕」と“ハードボイルド・ワンダーランド”の「私」は同一人物かもしれない。違うかもしれない。でももしかしたらそれはどちらでもいいのかもしれない。壮大なラストでそう感じてしまった。
村上春樹作品特有の現実的なものが一切ない架空の世界に入り込むと、日常生活のわずらわしさや悩みなどを忘れる。そして現実に戻ってくるとかなり気持ちが軽くなっていうことに気づく。
これも他の村上作品と同様に、私をそういう気分にさせてくれた作品だった。
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