船のことになると生き生きする十津川警部
ヨットに関する専門書のような描写
このミステリーは、ヨットのレースが大きな舞台になっているが、とにかくヨットに関する専門性がかなり詳細に描かれている。
十津川警部が大学時代ヨットの経験者であることは、「消えた乗務員」でも紹介されているが、この作品でも彼の経験者としての知識が存分に生かされている。(時系列としては赤い帆船の方が先である)
あまりに描写や説明が詳細なので、著者がヨットの趣味があったのかどうかなど調べてみたが、詳細は不明であった。西村氏がヨットを扱った作品はこの作品だけではなく、「日本のエーゲ海、日本の死」などでも扱われているし、ヨットに限らず船ということであれば多くの作品がある。
もしヨット未経験で取材だけでこれだけの作品を生み出したとしたら、驚愕する取材力である。
専門用語はあるが、ヨットの知識がまるでない人でも勉強になる平易な文章になっており、非常に読みやすい。
また、「消えた乗務員」でも感じることだが、鉄道がらみの事件が多いとはいえ十津川は決して鉄道オタクではない。素人であるがゆえに現地で初めて気づくことや、時刻表を見て気づくことが沢山ある。
しかし、ヨットに関しては、遺留品の一覧を見ただけで、素人には気づかぬ異変(持ち物の数がおかしいなど)に、プロに指摘される前に鋭い勘を働かせる。どちらかというと、海の方が本来の勘が冴えるようだ。鉄道トリックの方が有名ではあるが、ヨットがらみの事件の方が、十津川は「水を得た魚」になれるらしい。
登場人物の気持ちの掘り下げが深い
この作品の特徴は、冒頭の殺人事件の後、被害者と被害者を取り巻く「容疑者」となりうる人々の複雑な思いや背景が一人一人、非常に細かく描かれている点である。
殺された内田が抱えていた思い、内田を会社の広告塔として利用しようとした大野の思い、内田にライバル意識丸出しの村上の思い。あまりに詳しく描かれており、犯人を隠すのではなくむしろどの人間にも動機らしきものがあると前面に出されることで、犯人がより分かりづらくなっている。
たしかにアリバイ崩しなどは、その後犯人と警察の謎解きの攻防があるわけだが、動機については序盤で種明かしがされてしまっているのも珍しい。
しかし、つくづくこう言った各人の言い分とも言える描写を俯瞰で見ると、人間はそれぞれ考えがあるし、自分が正しいと思っているし、これでは衝突しあってもしょうがないと思える。
日常のいざこざはもちろんだが、戦争が起きても仕方ないという拡大解釈すらできる。この作品を読んでいると、本というものは自分がなりえない他人の人生を疑似体験させてくれることで、価値観の多様化を学べる貴重なものだと改めて感じる。
若さゆえ・・・
早出世した人なら誰でも苦労していると思われるのが、年上の部下への接し方である。
実写ドラマの十津川は、自分より5つ上の部下カメさんに対し、終始敬語で接している穏やかな上司として描かれているが、原作では敬語は使っていない。しかし、双方の信頼関係は確固たるもので、嫌な感じは一切ない。一心同体のようなパートナーシップが根底になっているから違和感を感じない。
しかしこの作品は、十津川の年齢設定は30歳、警部補時代という貴重な作品なのだが、年長らしき永井刑事へのミスした時の叱責の仕方がかなり厳しくて驚いてしまう。
優秀なのは昔からのようだが、どうも若い時分の彼は、ややまっすぐすぎて融通が利かない部分もあったようだ。厳しく怒ってもその倍は相手を認めている点に救いはあるが、明らかに40歳の十津川とは怒り方が全く違うので、ドラマや今の作品のイメージで赤い帆船を手に取ると面食らってしまうかもしれない。
しかし、若かりし日の彼を知り、キャラクターの成長を知るには興味深い作品だ。
犯人逮捕からが驚きの連続
ミステリーは、犯人の逮捕を持って決了したり、真実は闇の中のまま、おそらく刑事なり探偵の推理の方が事実だったろうと憶測される犯人死亡で幕を閉じる作品が多い。
しかし、赤い帆船は、推理と事実確認の繰り返しの中、喜んだり落ち込んだり、だましだまされを散々繰り返し、犯人逮捕に行きついた先にさらに推理より珍妙な事実が待っている。
犯人を追う側が何もかも暴いていく楽しさというのもミステリーでは痛快であるが、犯人の側が供述した事実がこんなにも魅力的、と言っては不謹慎かもしれないが、そう表現せざるを得ないミステリーも珍しいのではないか。
犯人と対峙して話す十津川との会話は、まるでテストの答え合わせをして一喜一憂する教師と生徒のようでもあり、ユニークな表現であると思う。
また、十津川だけでなく読者すら予想だにしない事実がどんどん出てくるのだから驚きである。
全ての事件にトリックは必要ない
私たちはとかくミステリーを読む時に、生じた事件に対しすべて裏の動機やトリックを想定しがちであり、無意識にそれを期待し、事件の真相を知りたがるものである。またミステリーの主旨がそういうものだとも思う。
しかし、この作品では、生じたすべての事件や事象に、必ずしも深読みすべきトリックは必要がないという、「トリックがない事への驚き」を読者に与えている。
これは読者や刑事である十津川が、当然犯人や動機を追うという前提があるからこそ、そこをいい意味で裏切る面白さと言えよう。また、その方がリアリティもある。
事件性があると思ってたことが事件じゃなかった時、「信じるよ」という十津川の言葉に、彼の人柄や懐の大きさ、将来多くの部下に慕われる彼の原型を感じる。
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