お笑いへの思いを哲学にまで昇華させた作品
話題に上った作品だったので読んでみた
私見ではあるけれど、又吉自身一風変わった感じの芸人であり、その漫才も他の芸人とはどことなく違った独特の世界観をもつような印象がある。
又吉の文章を知ったのは「カキフライが無いなら来なかった」などの自由律俳句の本だ。せきしろとのコンビで、日々のなんでもないシーンを言葉と写真とともに切り取ったその作品は、もう一度読んでみたいような作品だった。
しかしそれはあくまで俳句と短編という短い文章で、だからこそ又吉の長編が読んでみたくなった(それはせきしろも同じなのだけど)。そして一時話題に上ったこの作品を手にとってみたのだ。
そこにはお笑いに対する真剣な思いが満ち溢れていた。真剣に考える抜くことでそれは哲学的に昇華している、そんな印象だった。皆が皆それなりにお笑いに対する思いはあるのだろうけれど、これほど真剣に生きるか死ぬかのような気持ちでお笑いに接しているのが純粋にすごいと思った。いわば真剣さと真逆にあるお笑いがこのように紡ぎだされているのかと思うと、その奥深さとそれに携わっている人々の気持ちに思いを馳せてしまった。
もちろんストーリーには又吉の実名はでてこない。しかし「スパークス」の徳永こそ又吉の分身なのだろう。彼が師匠と仰ぐ神谷が誰なのかはわからないけれど、もしかしたら神谷こそ又吉なのだろうか。それは最後までわからなかった。
決してお笑いだけの物語ではない
もちろん芸人が主人公なのだからお笑いメインのストーリーなのだけれど、それだけではない。徳永と神谷の交流やそれを取り巻く人々との関わり、神谷と関わることで受けた刺激の数々それら多くのことがうまく織り込まれて、全体的には徳永の成長を描いている。その心理描写は巧みで、小難しい単語や比喩などもなく重々しい時もあるけれど軽快なわかりやすい文章で表されている。おかげで大いに感情移入してしまい、徳永が最後あっけなく引退してしまうときには茫然としてしまった。ただ引退ライブのネタは面白いのだけれど、いささか涙を誘うような、読み手側の感情を操ろうとしているようなストーリー展開に感じてしまい、逆に冷めてしまったところではある。
また、神谷の語るお笑いに対する気持ちと思いはとても極端で間がない。誰相手にも全力というのは聞こえはいいのだろうけれど、時と場合によればそれを貫くのは難しいことだ。しかしそういう生き方しかできない神谷をだからこそ師匠とする徳永の、神谷への気持ちの移り変わり、苛立ちの気持ちと尊敬する気持ちが混ざり合った複雑な感情、すごいことをあっけなくやってみせる妬ましさなどが実にうまく描写されている。その心理描写がこの作品でもっとも印象的なところだった。
この2人の関係は、マンガ「ガラスの仮面」のマヤと亜弓の関係を思い出させる。努力家の亜弓が必死に努力し手に入れたものを、マヤは息を吸うように自然にやってみせる。そのことに対する亜弓の嫉妬と苦しいほどの敗北感だ。亜弓の心理描写がそのまま徳永につながるような気がした。
神谷の言葉、徳永の言葉
徳永が又吉の分身であると思って読んでいたけれど、途中から神谷の考えていることこそ又吉が日々考えていることなのかなと思うようになってきた。詳しく調べたわけでないから本当のところはわからないけれど(そもそも基本的に小説のネタの由来とか意味とかを調べるのはあまり好きではない。自分の想像した世界をそのまま置いておきたいからだ)、神谷も徳永も両方又吉なのかもしれないと思った。二人を話させることで見えてきた又吉自身の気持ちとかももしかしたらあるのかもしれない。セリフの意味以上のそういうことを感じさせる言葉がとても多かった。自分にも他人にも厳しい神谷が発する言葉は、ほぼ哲学として成立しているようなものだし、神谷自身その思いに則って迷わず行動している。そのセリフはとても真実味があり、相手を説得する。一方徳永の言葉は、持たざるものの気持ちを代弁しているように感じる。どんなにあがいても神谷さんのようになれないという絶望、持って生まれた才能への嫉妬、そういうものがないまぜになった言葉を徳永は搾り出すように発する。それは同じ境遇にいるものにもしかしたら力を与えるものかもしれない。それくらい、彼らの発する言葉には力や精神のようなものを感じる。
“言霊”という言葉があるけれど、それは彼らが発する言葉こそに宿るのではないか。そんな気がした。
芸のみに心血を注ぐ神谷の生き方
神谷自身は類まれな才能を持ちながらも、中々世間から理解を得られずにいる。しかし売れる売れないという芸人としては目標であるようなことさえ神谷にとってはささいなもののように捉えている印象がある。生まれついての漫才師という人間は存在すると豪語する彼だけれど(自分以外にもそういう存在はいるという。それを淡々と徳永に説明するあの場面も、究極に哲学的だ。お笑いの話をしているのかどうなのかさえわからなくなるくらいだった)、売れていない以上お金にはいつも困っていた。恋人に貢がせたり消費者金融で借りたりしながら、それを湯水のように使っている。徳永との呑みも一切徳永には払わせないというこだわりもあり、お金はいくらあっても足りない状態だっただろう。しかし根っからの芸人の神谷はバイトをするということもできず、借金は雪だるま式に膨らんでいく。神谷が失踪したときは私は当然のように死を思った。自殺は彼の性格ではもちろんしないだろうけど、よくないところからお金も借りているし要因はいくらでもある。悲しい結末を予感したけれど、ストーリーは思わぬ方向に転がっていった。
おっさんが巨乳に
借金取りに追われて逃げ回るうちにどうしてそうなったのか、神谷は胸にシリコンをいれて立派な巨乳になっていた。理由はただ一つ「面白いと思ったから」。それだけでそんな大それたことができることは相変わらず神谷らしいのだけど、そこの面白さが鈍ったことを徳永がどれほど苦しく思ったか想像に難くない。実際の徳永の言葉は比較的常識的なもので、だからこそ神谷が世間に受け入れられない理由がよくわかるものだった。しかしその言葉は神谷への愛情に溢れていたと思う。それはダメだと話が苦手な徳永が必死に話すところは、読んでいてこちらも息苦しくなってしまいそうだった。
この人は一体なんなんだろうというところから始まり、でもやることはすごい、考えることはすごい自分にないものがあると師匠にしてもらったのに、その師匠が血迷った行動にでるとこちらは何を支えにしたらいいのかわからなくなるのかもしれない。今まで敬語で接していた徳永がここからタメ口になったところからもそれが分かる。もしかしたら心配しすぎて怒りになり、その怒りが言葉を乱暴にしているだけかもしれないが、ここで徳永はなにかを失ったような気がした。
この徳永が怒り、というより感情をここまで顕にしたのは初めてかもしれない。だからこそここの言葉はとても印象に残った。また、思いがけなくおっさんが巨乳になるということから話を拡げて、そしてここまで持っていくというそのやり方が斬新というか新鮮な感じがした。
火花=スパーク
神谷と徳永が出会うのは熱海の花火大会でのイベントだった。そして物語の最後も熱海の花火が出てくる。タイトル「火花」は、花火が散ったあとの火花のことかなとうっすら思っていたけれど、徳永のコンビ名はそのまま「スパークス」だ。どっちがどっちだかは分からないけれど、どちらもパッと華やかに輝きパッと散っていくところは共通している。もしかしたら両方の意味を込められたタイトルなのかも知れないなと思った。
この作品はただ単なるお笑い小説ではなく、芸人2人の生き様とその理想を限りなく追求して描いた作品だと思う。軽く読むつもりが思いがけなく重いものを残す作品だった。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)