結論がない小説
現代の一流お笑い芸人を目指す若者を、古典的に表現
物語の舞台は現代で、売れっ子になるのを目指しているお笑い芸人の若者の話であるが、文体自体は古典的である。作者の又吉直樹氏は、太宰治に傾倒していることで有名であるが、太宰の影響というよりはむしろ、松本清張氏や内田康夫氏を思わせる文体である。
話の内容にしては、若干文体が堅く、本をよく読む人でないと難解な単語なども出てくるため、読みづらさがあるかもしれないが、又吉氏のボキャブラリーの豊富さに驚かされ、作家の人となりを知る上ではむしろその読みづらさすら興味深い。
、また、又吉氏ご本人がお笑い芸人であるため、人を笑わせることの大変さ、お笑い芸人という仕事のリアルな実態の描写は秀逸である。
イラッと来る表現が見事
お笑いの先輩神谷と主人公徳永の、メールや会話のやりとりにおいて、文章表現が非常にくどく、読んでいてこんなにしつこい表現をしなくても良いのにとイラッとするようなシーンが散見される。
しかし、これは又吉氏の力量不足であるとか、文章力のなさといったマイナス要素ではなく、神谷という登場人物から徳永が感じている「くどさ」や「しつこさ」を、同時に読者も「文章表現がくどくどしい」と感じることで、リアルタイムに徳永に感情移入できるという長所になっている。
こういう表現方法の小説を見たのは、火花が初めてであり、又吉氏特有の手法として次回作などにも大いに期待したい。
何かを訴えるための結末は用意されていない
おそらくこの作品を読んだ人の中には、最後の落ちを読んで、結局この作品は何が言いたかったのだろうかと、拍子抜けのような気持ちになる人もあろうかと思う。小説というのには2種類あって、一つはあるテーマや結末がしっかりと表現され、落としどころがはっきりしているもの、もう一つは、物語そのものの過程を楽しむことが目的で、落ち自体はあまり問題になっていないものとある。火花は後者のタイプの小説と言える。
徳永と神谷が、どういう結論を出したとか、どういうことを悟ったかということがこの小説の主眼ではなく、お笑い芸人として経験を積み、いい思いも悪い思いもしながら、こういう風に生きているというその過程を楽しむ小説である。一度読み終えてしっくりこなくても、二度三度と読むと、その過程の楽しさというのが、じわじわとにじみ出てくる。この手の小説はミステリーと違い、後半のページを読んで犯人がわかればそれでおしまい、というのではなく、読み手個々の好みにおいて、好きなシーンが異なってくるので、物語の真ん中から読み返したいという人もいるであろう。
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