ふとした日常と空がリンクした瞬間を描いた作品
目次
ANA「翼の王国」に掲載されている短編
この「あの空の下で」はANAの座席の背もたれポケットに入っている「翼の王国」に連載されている短編をまとめたものだ。私は先に「空の冒険」を読んだけれど、これもそれに連載されているものだった。発行されたのは「あの空の下で」が先となっており、順番としては逆に読んでしまったのだけど、特に話が続いているわけではないので支障はなかった。それよりも「空の冒険」が「翼の王国」に連載されていた作品をまとめたということを知っていたので、この「あの空の下で」もタイトルどおりそれを連想させてくれたため、これもそうなのかもと思いながら読めたことは逆に良かったことかもしれない。
「空」「飛行機」という言葉がダイレクトにキーワードになっているものもあれば、なんとなくそういうものを思い浮かべさせるだけのものもあり、その色彩は様々だ。また短編の合間合間に吉田修一自身が訪れた国での体験を描いたエッセイも差し挟まれ、全体的に異国情緒と旅感があふれる作品となっている。
時々その文章がいわば“スタイリッシュ”すぎて、そしてそれを演出するためだけのチョイスであるかのように感じられる言葉で綴られる文章が往々にして意味のないように感じられ、時には敬遠してしまうときさえあった吉田修一が、この作品についてはいいところしか感じられないくらいよくはまっていた。
吉田修一の風景描写が際立つ
吉田修一の文章の最大の魅力は、その緻密な風景描写にあると思う。「さよなら渓谷」でも「静かな爆弾」でも人物描写よりもその登場人物が見ている公園の風景、駅を歩く人々、着ている服、電車に乗っている人が読んでいる新聞など、日常的な場面を切り取り細かく描写することで、独特の世界ができあがっていると思う。吉田修一の書く風景は事細かに描写されているため頭でスムーズに映像化させることができるだけでなく、その色彩の鮮やかさも特筆すべきものがあると思う。彼の文章を読んで頭の中で想像するその世界は、いつも塗りたての絵の具で書かれたかのように瑞々しく感じる。これは吉田修一特有のものであると思った。
反対に、人物の心理を深く掘り下げて描写することは苦手なのか、あまりないように思う。そのため登場人物が多すぎると深みがなく感じられてしまうことが多い。特にその傾向が顕著だったのは「太陽は動かない」だろう。産業スパイの主人公の心理描写があまりに少ないため彼がどんな人間なのかわからないまま話が進んでいく。なのでそのセリフもどこか上滑りしているように感じて、全くのめりこめない作品だったことを記憶している。行動の動機というものを理解できないまま進む彼のセリフはどこか棒読み感さえ感じられた。しかし「路」は、台湾新幹線開通に携わる人々を描いているから当然登場人物は多い。にもかかわらず一気に読むことができたのは、台湾新幹線という大きなテーマが一つどんとあり、それプラス活気づいている台湾の町並みなどが目に浮かぶほどに描写されている風景描写の手腕によるものだと思う。また主要テーマが大きいため、それほど登場人物たちの人となりを詳しく知る必要がなかったかもしれない。なんにせよ、それくらい吉田修一の風景描写は物語の内容に及ぼす影響が大きい。
だからこそ、今回の「あの空の下で」は、空や旅にまつわる風景が頭にさっと浮かぶことがなにより大切だと思う。だからこそ、吉田修一の風景描写が際立ったように感じた。
もしかしたらこういったテーマが彼の文章のイメージに一番ぴったりとしているのかもしれない。
土地の町並みをうかがい知ることが出来るエッセイ
この「あの空の下で」には、6つのエッセイが含まれている。吉田修一が取材などで訪れた国を静かに描写しているのだけど、短編の中に差し挟まれているため、その短編はそれらの国々に関係する話かなと思いきや、そうでもないようだ。ただタイトルや読後感はその国にあるものを感じるような気もする。
吉田修一の国を巡るエッセイはとてもエッセイらしいエッセイだ(ところで、“エッセイ”なのか“エッセー”なのかどっちだろう。奥田英朗は確か“エッセー”と表記していて、悩んだ記憶がある)。吉田修一の風景描写のおかげで、行ったことのない国々が頭の中にくっきりと思い浮かべることができる。前述した「路」もこの印象がとても強い作品だった。それはエッセイという形の存在価値を確実にしてくれるものだと思う。個人的にはエッセイというものを敬遠していたこともあったからだ。
吉田修一はエッセイを見直させてくれた作家の中の一人でもある。
残念だったところのいくつかのうちのひとつ
「ルアンバパン」を訪れたときの出来事で、吉田修一が物売りの姉妹に出会う場面がある。そしてメコン川を見に行ったときその少女と再会するのだが、その際の描写に“美しい”という文字を使いすぎだと思う。そもそも“美しい”とか“きれい”とか“楽しい”とか直接的な形容詞を使わないのが作家の文章力の見せ所だと思うのだけれど、ちょっと目に付くくらい多用していたのが残念なところだった(ちなみに数えてみると見開き2ページで3箇所もあった)。吉田修一の作品では時々こういうことがある。文章のプロなのに、“涙がこらえられない”とか“悲しい”とか、直接的すぎる表現が時に目につくのだ。
私が小学校の時の担任に作文を作るときの注意を受けたときに、「“楽しかった”とか“うれしかった”とかいう言葉を使わずに表現してみなさい。」と言われたことを覚えている。その担任が何年生の時なのか、どの担任の先生だったのかも覚えていないのだが、不思議にその言葉だけは覚えている。その教えは今でも文章を書くときに時々思いだす。そして吉田修一の文章を読んで「直接的だなあ」と感じるときにもこの言葉を思い出す。
全体的には読み手の脳内に映像を思い浮かべさせることができるくらいの手腕をもっているのに、時々手を抜いたとは思えないけれど、そうじゃなくて違う表現を読みたかったと思わせる文章が見えるところが残念に感じるところだ。
ありふれた日常を切り取ったリアルな世界の生々しさ
ここに収められている短編の中で最も印象に残っているのは、「東京画」だ。昔の同級生が東京で作家になっており、その東京で同窓会をするために10年ぶりに彼に連絡してという話だ。久しぶりに彼、島本に電話した宇野はどこかしら彼らしくない言葉を耳にする。それがどうしても島本らしくなく違和感を覚えたのだが、結局同窓会に顔を出すことがなかった島本の言い訳が昔どおりの自分勝手な言い訳でそれになにかしら安心したという話だ。この感覚はきっと誰しも感じうることだと思う。私自身高校の友人が結婚し子供をもうけ、そのうちに昔からもっていた独特の魅力が世間の一般常識という波に削り取られて一切残っていないことがショックだったことがある。だからこそそれが自分自身もそうなるまいと考える拠り所にもなっている。そういう経験をしているからか、この主人公宇野の気持ちがとてもよく理解できる。逆に島本をせめる他の友人の気持ちがわからなかったくらいだ(もしかしたら彼らは高校のころから島本の行動をそのように非難していたのかもしれないが)。
親友とは裏切らないのではなく、裏切りあえる仲なのかもしれないという文章は個人的には理解できないようなできるようなといった感じなのだが、その言葉で締めくくられるこの物語が、一番心に残った。
この作品はところどころ気になるところがあるものの、仕事中の食後の一服のような、どこかほっと息をつけるようなそんな感じがする。気分をどこか遠くに連れていってくれるような、現実をふっと忘れさせてくれるようなそんな感じだ。
昼にカフェなどで読むにはうってつけの作品かもしれない。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)