原作に一つのテーマを加味し、更なる高みに持ち上げたアニメ版!
目次
昭和の価値観で作られたヒーロー!
あしたのジョーは昭和を代表するヒーロー作品である。敢えて昭和というのは、もはや完全に平成の価値観では生み出されない作品だからだ。
ご存知の通り、ジョーが真っ白な灰になって燃え尽きたところで本作は終了する。彼が死んだのかどうかはここでは語るまい。
※原作マンガの作画を担当したちばてつや氏は彼が死んでいない、と言っている。それについては以下を参照願いたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC
本題に戻ろう。
平成には絶対に生み出されない、というのは何故か。
それは価値観の違いがあまりにも大きいためだ。
現代社会は経済至上主義に支配されており、凄い人=身体ではなく頭を使ってたくさん稼ぐ人だと言っても過言ではないだろう。
もう少しソフトに言えば、スマートに仕事をして、可能な限り利益を得て、実生活も充実させている人、といったところか。
言い方はともかく、金が無いところにリスペクトは無い。
悲しいかな、それが現代の基準だ。
本作の主人公・矢吹ジョーはその対極にいる。
彼は金や地位、名誉など見向きもしないし、楽をしたいとも思わない。
更に自分がやっていることを人に評価される必要も感じていない。
彼はただ自分自身が燃えていることを求めているだけなのだ。
そのためには健康はおろか命をさしだすことすら躊躇しない。
現代人は、細く長く賢く生きることを是とするが、ジョーは太く短く生きることを求めたのだ。
あしたのジョー2は「スポ根」ではない
スポ根(スポーツ根性モノ)という言葉があるが、あしたのジョー2はこれに該当しない。
スポ根とは、辛い境遇や練習に耐えて、根性をバネとしてスポーツに励み成功を目指す、というものだ。
ジョーの後見人である丹下団平などは概ねこれにあたる人物ではある。彼はジョーが東洋太平洋チャンピオンになった時にその地位の向上に喜び、彼のボクシングジムを拡張する。
一方、ジョーは境遇の改善とか、勝利のために戦っている訳ではない。
彼にとってボクシングは自分の燃え燻ぶる気持ちをぶつけられる唯一の道なのだ。逆に言えばボクシングに携わっていなければ、彼に充足は無い。
もちろんドヤ街の子供たちと緩やかに過ごしている時も笑顔を見せる。だがそれはあくまでもボクシングの合間の休息であって、それが彼の求めるものではない。
また、同僚・マンモス西の結婚を彼は心から祝福している。
だがそれは自分が大事に思う人が、その人が望むものを得たことを喜んでいるのだ。
彼は他人の結婚や成功をうらやむことは無い。なぜなら、彼自身はそれを求めていないからだ。
彼はひたすらロードワークやシャドウボクシングに励む。
傍から見れば辛い減量やハードな練習も、彼にとっては苦労ではない。それはボクシングという至福の時間への準備であるにすぎないのだから。
第14話で林屋のノリちゃん(林紀子)に、ジョーがボクシングに向かう心境を語るシーンがある。
ボクシングばかりの日々が寂しくないのか、という彼女の問いに、彼はこう答える。
「ブスブスとそこらにある、見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。ほんの一瞬にせよ、まぶしいほど真っ赤に燃え上がるんだ」
最初は淡々と語っていたジョーだが、少しずつ熱を帯びていく。
その姿に、彼女は若干の恐怖すら覚えていたかもしれない。
だが、ジョーは構わず続ける。
「そして後には真っ白な灰だけが残る。燃えカスなんかのこりゃしない。真っ白な…灰だけだ。力石だって、あのカーロスだって、きっと…きっとそうだったんだ!」
このセリフはあまりにも印象的なので、本作を見た人の記憶に必ず残っているだろう。
ただ、ここに至る過程が重要なので、あえて状況を箇条書きで捕捉しよう。
・半年以上前に、ジョーは永遠のライバル・力石徹と激しい試合を行った。
・試合には勝った力石だが、その直後に死亡。
・原因は激しい減量とジョーが放ったテンプルへの一撃、そしてそのダウンの際の後頭部強打。
・そのことで精神的な傷を負い、ジョーは相手の頭部を打てない状態におちいってしまう。
・それを世間に知られ、2流のボクサーに連敗するジョー。
・底辺でのたうち回るジョーだったが、カーロス・リベラと出会い、闘志を回復。
・ジョーは野獣として、ボクサーとして完全に蘇えった。
・そのカーロスとの闘いを終えて充足感で満たされているジョー。
・しかしカーロスは彼との試合が原因でパンチドランカーになってしまう。
・カーロスはその状態で世界チャンプ ホセ・メンドーサと闘うが惨敗。そのまま行方不明になる。
・自分と戦った相手が失われていく、そのことに衝撃を受けるジョー…
そこに何気なく現れたノリちゃんとぶらりと出かけ、数時間を過ごした後で交わしたのが、前述のセリフなのだ。
力石は自分と闘うために命懸けの減量を行い、そしてリングに命を捨てた…
カーロスは世界戦に向けた秘密兵器を、惜しげなくジョーに繰り出した…
彼等も間違いなく、金や名誉などを求めたのではない。
リングの上で強敵と打ち合う充足感のみに生きた。
だからこそ、普段自分を語らないジョーが、敢えてあのセリフを吐いたのだ。
燃え尽きるような充足感を伴わない、中途半端な楽しみなど何の意味もない、と。
これが全47話中14話での出来事である。
この時点で既にこの物語は全開なのだ。
テーマを小出しにする作今のこざかしい不完全燃焼な作品とはわけが違う。
常に全力、それこそが矢吹ジョーその人であり、あしたのジョーの世界なのだ。
秀逸な追加ストーリー
このあしたのジョー2では原作には無いストーリーが多数描かれている。
ウルフ金串との友情、レオンスマイリーとの死闘、ホセと拳を交えた唯一の日本人村上輝明、情報屋須賀清。
どのキャラも話に大きく絡むわけではないが、それぞれにいい味を出している。
そもそも論で言えば、ジョーが燃え尽きるまでの基本ストーリーは高森朝雄=梶原一騎とちばてつやが原作マンガで生み出したものだ。
このレビューはアニメ:あしたのジョー2を語る場所なので、これらを書かない訳にはいくまい。
そんな訳で本項と事項はそのアニメオリジナルストーリーとキャラを語ろう。
ジョーが標的としているチャンピオン・ホセ メンドーサと戦ったことがあるという、村上輝明の話は、なんともやるせないのだが、そこにこそアニメ版の味がある。
村上は日本チャンピオンだった頃に、まだ16歳だったホセに完敗している。
若造と思った相手に叩きのめされ、やる気を失った彼だったが、数年後ホセがチャンピオンになったことをきっかけに人間として立ち直り、焼鳥屋を始める。
これをアニメ製作スタッフは敗者の栄光と名づけている。
この回でプロボクサーだった村上が通りすがりのチンピラになすすべもなく痛めつけられる、いたたまれないシーンがある。そこに居合わせせたジョーは同情するでもなく、共感するでもなく、ただチンピラを叩きのめす。
村上は我々と同じ普通の人間として淡々と描かれている。
かつて日本チャンピオンであったこと、現世界チャンピオン・ホセと拳を交えたこと、それを誰に語るわけでもないが、心の中の支えとして生きている。
裕福ではないけれど小さな焼き鳥屋で何とか食っては行けている。
そんな人物を、哀れとか惨めな存在として描くのではなく、普通の人として登場させる。
ストーリー全体としてはホセの圧倒的強さを裏付ける回なのだが、村上という普通のボクサーを描くことによって、ジョーがいかにまぶしく燃え上がる存在であるかがクローズアップされてもいる。
あしたのジョー2ではこのようなシーンが多数あり、全てはジョーが特殊な存在であり、誰よりも燃え上がったが故に、燃え尽きるラストシーンの感動を引き立てる、当て馬的な要素も備えている。
アニメオリジナルのピカイチストーリー、落ちぶれたウルフ金串のかすかな希望
もう一つ、アニメオリジナルの話をしよう。
かつてジョーと闘って顎の骨を砕かれて引退したウルフ金串にまつわる話だ。
本作第一話に登場し、ゴロマキ権藤にあごを狙われてのたうち回る所を、ジョーが助けるシーンがある。
この時はただ、切ないシーンとして描かれる。
かつてのライバルがヤクザの用心棒に身を落とし、しかもボクサーではない男にボロボロにされる。これもまた前述の村上と同様に、ため息をつきたくなる展開だが、この出来事の後、ジョーは放浪生活を終えて、プロボクサーとして復活する。
そのウルフが再登場するのはジョーが金竜飛を破って東洋太平洋チャンピオンになった後だ。ウルフは知り合いのジムでトレーナーをやっていると嘘をついてジョーに近づき、30万円を借りる。
いわゆる有名になった途端に金を借りに来る昔の知り合い、という、やはりぐったりするような展開なのだが、物語はそれだけで終わらない。
ウルフの婚約者であったジュンという女性が、ジョーに謝りながらも彼が立ち直ることを信じているので金は自分が返す、と泣きながら告げる。
ここでジョーの名セリフが入る。
「ウルフは返しに来る、いつか必ず! あんたが奴を信じてるように、俺も、ヤツを信じる。」
この時点でクズとも言えるウルフを二人の人間が信じると言い切る。
昭和的な人情話と言えばそこまでだが、この話は後の伏線として生きる。
※余談だが、この回のみで登場する二人、ウルフの元婚約者ジュンとその弟ジローの声優が単発出演とは思えない大物であることを記載しておこう。
ジローは海のトリトン、伝説巨人イデオンの主人公コスモを演じた塩谷翼。
ジュンは天空の城ラピュタのシータを演じた横沢啓子だ。
そしてこの二人の父親が営んでいるボクシングジムが「塩谷ジム」という名前なのは塩谷翼へのリスペクトであることは間違いなく、ニヤリとさせられる。
話を戻そう。
ウルフの出番はこれで終わりではない。
ジョーがホセとの世界戦を迎えた前夜、ウルフは本当に金を返しに来たのだ!
世界戦の前夜に申し訳ない、と詫びるウルフに、ジョーは笑いながら答える。
「大事な試合の前はいつもこんなさ。どうせよく眠れねぇ。
カーロスん時、力石ん時もそうだった。ウルフよぉ、おまえん時もそうだったぜ」
ジョーはリップサービスで言っている訳ではない。
待つと言ったのも、ウルフやジュンに同情したからではないだろう。
ジョーは本当にそう思っているのだ。
彼は自分ならそうするだろう、という考えでのみ行動しているのだから。
そして、ジョーが他人に理解されることを全く求めず、ただ燃え続けることを生きがいとするその姿こそが、ウルフを更生させる力の一つになったのだ、と私は信じる。
ウルフだけではない。
少年院でジョーと知り合った人々も、彼の世界戦に足を運んでいる。単に昔の知り合い、というだけではないだろう。
歳を重ねて、良くも悪くも大人になった自分たちと違い、全く変わらないジョーに色々な感情を重ねる。
祝福、期待、応援、あこがれ、羨望、ほろにがさ、切なさ…
シンプルに彼は凄い、というポジティブな思いに、自分たちの内なるネガティブな感情を色々重ねる。
そう、彼らが抱いているのは前項で記述した、村上と同じ敗者の栄光なのだ。
無論彼らは人生の全てにおいて敗者ではない。むしろ家庭や安定した職を持つという意味で、ある面から見ればジョーよりも社会的地位は高いかもしれない。
だが、日常、世間という大きなものに常に流され続ける自分たちと比べて、そういうものを寄せ付けないジョーは彼らにとって、やはり栄光の存在なのだ。
そしてやっぱり燃え尽きることも語ろう
ジョーはホセとの戦いで燃え尽きる。
キング オブ キングスと呼ばれるだけあって、ホセは確かに強い。
だが、本作・あしたのジョー2では、このホセ戦の最中に力石の幻影や記憶と闘っているシーンが、意図的に挿入されている。
既にパンチドランカー症状に蝕まれているジョーの意識の混濁ともとれるが、やはり彼にとっての最大のライバルは力石徹であった、という演出意図もあるのだろう。
ここで振り返ってほしい、村上や少年院で出会った人々、ウルフや西、彼らは自分が戦った相手(ホセや矢吹ジョー)に負けた自分、という位置づけを自ら行っている。
自分を敗者あるいは脱落者と認めることで、いまだあの頃のまま戦い続けるホセやジョーを憧れの対象としてリスペクトできる。
これこそが、本作が言う敗者の栄光なのだ。
だが、ジョーは違う。
彼は試合に負けても、その勝者に劣等感やあこがれを抱いたりしない。どうやったらその相手に勝てるか、それだけを考える。
実は彼は最大のライバルと言える相手に、試合の結果としてはほとんど勝っていない。
カーロスとの死闘はドロー(引き分け)で終わっているし、力石にはKO負け、ホセには判定負けを喫している。
だが彼は精神的には常に負けておらず、自分自身をその偉大なライバルたちと同等と思っているので、ウルフや村上たちのように、自分を負かした相手の栄達にあこがれを持つ必要が無いのだ。
ジョーが燃え尽きるまでノンストップで戦い続けたことが、原作を含むこの作品のメインのテーマであることは間違いない。
だが、このアニメ版・あしたのジョー2だけが語る、オリジナルのテーマが明確に存在する。
敗者の位置に落ち着かない、過去のライバルに対して自分を敗者と認めず、力石を殺した精神的ショックで頭部を撃てなくなった時も、減量で苦しんでいる時も、彼は常にあしたを見続けている。
そのあしたは、無論、栄光とか、金とか、名誉ではない。
強敵に立ち向かい、燃えるような充足感を味わえるあしたこそが、彼が求めるものなのだ。
永遠の燃える男ジョー、これこそがこのアニメ・あしたのジョー2に川のように流れるテーマに違いない。
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