エロスという題材への集中っぷりが光る 小川洋子初期の代表作
彼女は今作でエロスに挑んだ!
現在は非常に静かな、密やかな世界を描くことが多い小川洋子だが、今作では正面からエロティックな世界に挑んでいる。
発表したのは1996年、デビューから8年目、彼女が34歳の時だ。
デビュー直後に芥川賞を取っており、この頃はまだ若手女流作家という位置づけが強かったのではないかと思われる。
その彼女をして、老人と少女がSMを繰り広げるという展開、ショッキングでもあり、20年を経た今でも、小川洋子の好きな作品の上位に挙げる人が多い。
彼女は本作以前にも性描写を書く事はあったが、これほど明確に表現している例は少ない。本作では陰毛、乳房、乳首などの言葉を繰り返し使っているし、翻訳家がマリの秘部に指を差し込む描写や、その体液を彼女に塗りつけるなど、露骨な表現が目白押しだ。
男性器そのものや挿入を示す描写こそしていないものの、翻訳家の攻めに対してマリは明らかに性的快感を覚えているし、自分からお願いして行為を続けてもらう場面も一度ならずある。
小川洋子は本作でエロスを書ききったのかもしれない。
以後の作品でも要素としての性的描写は何度も登場するが、本作のような露骨なものは無くなり、書く場合もかなりおとなしい表現になっている。
出版元が学研?! このエロさ、アリ?
余談ではあるが、本作の出版元は学研である。
学研というとお固い学習誌を誰もが思い浮かべるだろう。
現在40歳以上の人なら「科学」と「学習」という雑誌を思い出す人も多いかもしれない。
(私も小学生の頃は「科学」の付録である知育玩具に熱中した一人だ)
現在もこの会社は小学校の図書室においてあるような、マンガで読む○○の歴史とか動物図鑑などを数多く発行している。
その学研で、このエロティックな内容、大丈夫なのか? と思い同社が発行する作品を調べてみたら、上品とは言い難い小説作品が数多く出版されていた。
本作に直接は関係ないが、一応URLを張り付けておくので暇な方は御参照あれ。
http://hon.gakken.jp/book_m/pocket/m_pocket/
舞台はどこ? 意図的に生み出された無国籍環境
ホテル・アイリスはどこにあるのか、作者はそれを明確にしていない。
私は、漠然とヨーロッパのどこか、イタリアとかギリシャあたりをイメージしながら読み進んだ。
マリが翻訳家の家に行った際、ロシア語など見るのははじめてだった、と語っているので、言うまでもないことだがロシアや東欧ではない。
また、アイリスという名の女性が宿泊客としてやってきたとき、母親が英語を全く理解しないという場面があるので、英語圏であるイギリスやアメリカ、オーストラリアは候補から脱落する。
場所が明かされない中にも、まあいいやと思いつつ頁を繰っていくと、もしかしてこれは日本? と思えるような描写が出てくる。
マリの幼児期の回想で、ランドセルが出てくるのだ。
調べてみるとやはりランドセルを小学生が背負うのは日本独自の習慣である。
ヨーロッパの青い海を想像しながら読んでいたのに、日本かと思うと読み味が微妙に変わって来る。
小川洋子自身が直接発言していないだろうか、とweb上で探してみると以下の記事が見つかった。
http://www.quilala.jp/pc/fbs/old_from_bs/interview24.html
どうやら作者が想定したのはフランスのサン・マロという海辺の街らしい。
画像検索すると美しい建物や青い海の風景が無数に出てくる。
ああ、これならイメージに合う、と安心して最後まで読むことが出来た。
やはりイメージは大事である。
小川洋子の作品はその舞台の地域を明確にしないものが多い。
本作とブラフマンの埋葬はその代表的な例だろう。
念のためマリという名前についても調べてみたが、フランスの女性で過去に最も多いのが
Marie=マリーであるらしい。
https://www.spintheearth.net/french_name/
翻訳家は明確にマリとマリーを使い分けているので、本作の主人公は上記のスペルではないのだろうか。
さらに色々探していると日本人の真理という人が書いたサイトに当たった。
http://mariatparis.jugem.jp/?eid=28
この真理さんによればMariはフランスで普通にある名前のようだ。
小川洋子は本作を無国籍化するために敢えて日本人に違和感が無く、かつヨーロッパでも問題ない名前を敢えて選んだのかもしれない。
小川洋子が演出する所在不明の落ち着かなさ
思えば本作で名前を持っているのは彼女しかいない。
他は母親、おばさん、翻訳家、甥、などだ。
そう思って全体を読み返してみると、各人物の特徴を上げる時に、髪が長いとかウエーブがかかっているなどの状態は明らかにしているが、その色を表す描写は無い。
唯一マリの瞳が黒目がちという点のみは銘記されているが、それ以外は髪や肌の色を表すことを避け、巧妙に人種を予想させない。
作者は敢えて地域を明確にしないことで、読み手の落ち着かなさを演出したのかもしれない。
どこかわからない場所で、主人公はひたすら鬱屈した生活を送っている。
唯一自分を愛してくれた父は他界しており、金にしか興味が無い母親に拘束される面白くもない日々の繰り返し、マリはそんな人生に絶望している。
そこに現れた異世界の住人である翻訳家に彼女は異様に惹かれる。
どこでもいいからここではないどこかへ連れて行って欲しい、マリはそう思ったのではないか?
そのマリの鬱屈に共感するには、所在不明の落ち着かなさが必要だ、小川洋子はそう思ったのかもしれない。
疑問が残るのは翻訳家が死について語る時、空襲という言葉を残している事だ。
空襲というと、第二次世界大戦において最後まで抵抗を続けた日本を想像してしまう。
この大戦において、フランスは早い段階で劣勢に立ったため、開戦から1,2か月でドイツに和平を求めており(実質的な降伏)、被害は少なかったように思っていた。
しかし、この点も調べてみると、フランス北部には激しい空襲被害があったことが分かった。
しかもこのサン・マロは、街の八割が破壊されるという、最も打撃を受けた場所の一つだったのだ。
小川洋子がどこまで仕組んだのかは結局わからない。
しかし、このように考え調べていくことでより深く彼女の世界に埋没できる、それが本作の魅力の一つだ。
小川洋子らしい明確な決着
翻訳家の死によって、マリの奇異なる日々は終わりを告げる。
荒らしの到来によって船が欠航した時、読者としてはマリが二度とアイリスに戻ること無く、永遠に島での退廃的で甘美な行いを繰り返す、という未来を予想した。
しかし小川洋子は殆どの作品で、そのような放置するだけのエンディングを選ばない。
貴婦人Aの蘇生、博士の愛した数式、ブラフマンの埋葬などの作品において、クライマックスで訪れる不思議や異世界を構成する人間(あるいは動物)の死が訪れる。
それによって主人公はそこに別れを告げる。
主人公にとって過去に味わったことの無い濃密な日々は、世間の人々は誰も知らず、時は何も変わらず流れ続ける。
しかし、無論主人公はその異質な世界を知る前には戻れない。
彼等はその記憶を抱いたまま、一見それが無かったかのように、普通の世界を生きていくのだろう。
その喪失感こそが、この時期の小川洋子が繰り返し描いたテーマだ。
彼女の作品において、世界に影響を及ぼすような人はあまり出てこない。
それぞれの特異な人々は、静かに、しかし確実に世間の人々より濃密に生きている。
思うに、小川洋子自身がそのような人物なのではないだろうか。
彼女は日々表現の対象を求めて、文章の世界をさ迷っている。
その対象は時にカタツムリやハダカデバネズミのような生き物であったりする。
時には刺繍やチェスや数式のような、崇高だが一般人にはあまり意味がない人間の営みでもある。
彼女は期せずして有名な作家となったが、常に自己の世界を追求することに集中する人なのだ。
彼女が翻訳家に与えた集中の対象がたまたま異常な性癖であった、そしてこの作品で小川洋子が追及したのは激しい退廃を伴う性愛であった、そういうことなのだ。
彼女は十分にその世界を書ききって、次なる対象を求めてこの話を終えたのだ。
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