ユーモア、おかしみ、軽妙さを犠牲にして自分の魂のまだ見ぬ故郷としてアメリカの原風景を描き出した「デッドマン」 - デッドマンの感想

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デッドマン

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映像
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脚本
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キャスト
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音楽
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演出
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感想数
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ユーモア、おかしみ、軽妙さを犠牲にして自分の魂のまだ見ぬ故郷としてアメリカの原風景を描き出した「デッドマン」

4.04.0
映像
4.5
脚本
4.0
キャスト
4.0
音楽
4.0
演出
4.0

ジム・ジャームッシュ監督は常に動いているなと感じさせてくれる監督だ。やっぱり一か所にとどまっているような人ではないと思います。「ナイト・オン・ザ・プラネット」から3年後に撮ったこの「デッドマン」を観て、あらためて私はそのような気持ち強くしました。

この「デッドマン」は、それまでのジム・ジャームッシュ監督の映画とはだいぶ違う感触を持った映画だと思います。具体的には時代設定が大きく違っていて、百数十年以上昔の「時代劇」であり、「西部劇」なのです。これは、ジャームッシュの映画としては初めてのことだ。

私はジャームッシュ映画の、それまでの誰も描き出せなかったようなタイプの、明るい孤独感がその底に流れているようなユーモアがとても好きだったのだが、それも何作か続くと、何と言うか「ジャームッシュがジャームッシュ調でまとめてみました」というような予定調和に陥っているような感じがしていました。

しかし、この「デッドマン」でジャームッシュ監督は、大きな勝負の賭けに出たという感じがするのです。ユーモア、おかしみ、軽妙さといったものを犠牲にしてでもという意気込みで、自分の魂のまだ見ぬ故郷を、ついのすみかを、パラダイスを描き出して見せたのだと思います。それは、別の言葉で言うなら「アメリカの原風景」とかなり重なり合うもののような気がします。したがって、それまでのジャームッシュ映画は"街の匂い"が強かったけれども、この「デッドマン」では、"土の匂い"が強いものになっていると思います。

この映画は、基本的にはシンプルな話です。アメリカ東部から来た一人の青年(ジョニー・デップ)が西部に行って、奇妙なインディアンに導かれるまま、ずんずんと西部の深奥部まで入り込み、ついには命を落とす-------という話だ。

この映画の冒頭のシーン。汽車が広大な原野をひた走る場面から、いきなり観ている私の胸はときめいてしまいます。客室内と窓外の風景とを、いくつかたたみかけて見せるだけで、汽車が東部から西部へ、その最も深い部分へと走っていることがよくわかります。青年が西部を見るのは初めてだということも、そして目的地に対して、自分の将来に関して、大きな不安を抱いているということも。汽車の車輪の不安定で硬質な音楽が断続的にかぶさり、「何かが始まる------」という気分が、いっそうかきたてられます。このように、この冒頭のシーンは、実に鮮やかな滑り出しなのです。

このウィリアム・ブレイクという青年は、西部に職を求めてやって来たのだが、冷酷非情な社長(ロバート・ミッチャム)のために就職できない。おまけに、偶然にも社長の息子と相撃ちになり、殺してしまったため、殺し屋三人組に追いかけられるはめになるのです。

この殺し屋三人組というのが、実にシビアなエゴイスト揃いなのだ。三人組が大好きなジャームッシュ監督らしいが、かつての「ダウン・バイ・ロー」の囚人三人組の何倍もワルだ。コール・ウィルソン(ランス・ヘンリクスン)という男などは、自分の両親を犯して、殺して、煮て、喰ったというんだから徹底している。

主人公の青年のほうも、社長の息子に撃たれていて、息もたえだえ。そこを風変わりなインディアン(ゲーリー・ファーマー)に助けられる。「ノーボディ」と名乗ったそのインディアンは、子供の頃にイギリスに留学した経験を持っていて、ウィリアム・ブレイクの詩を愛していたので、青年の名が大詩人と同じだと知り、感動してしまうのだ。どうやら大詩人の死後の姿だと思い込んだ様子なのだ。

こうして、都会の文明生活から流れ着いた青年と、部族から離れ、文明生活をかいま見たインディアン。この二人のはみ出し者同士の旅が始まるのです-------。

私は、これまで数多くの西部劇を観てきましたが、この「デッドマン」で描かれた西部の風景には少々驚いてしまった。西部というと、乾いた砂漠とか大平原を連想しますが、こんな密林のようなところもあったのかと-------。私は、この映画を観ながら、アメリカ南部が舞台だった「ダウン・バイ・ロー」の森を思い出していました。その森の中で出会う人々も、かつてないほどワイルドだったと。人も動物も同じ高さで生きていることを。

観ているうちに、画面はどんどん不思議な気配が立ち込めてくるのです。ジャームッシュ監督らしく、一つのエピソードから次のエピソードに移る時、黒い画面でつないでいくのですが、それが、まるで人間が瞼を閉じて失神していくような効果を出しているのです。そして、映画の後半は、夢とも幻ともつかない感じ、ウィリアム・ブレイク青年が見たいくつかの"夢のつらなり"のような感じにも思えるのです。

名手ロビー・ミュラーのカメラワークが、ますます混沌茫漠とした感じを強めているのです。モノクローム画面なのですが、敢えて黒白のコントラストは狙わず、中間のグレイの豊かさを描き出そうとしたのだと思います。ジャームッシュ監督は、この映画をモノクロームにした理由を「何よりもまず、主人公がする旅が、彼を、慣れ親しんでいるいっさいのものからどんどん遠いところに運んでしまう物語だからです。カラーだと、風景シーンが特にそうですが、ものにはそれぞれの色があるから、色の馴染みで見てしまい、この映画の物語を土台から壊してしまいかねない」と、語っています。

恐らく、ジャームッシュ監督は、我々が文明生活の中で、無意識の部分にまでわたって馴染んでしまっている、広い意味での判断基準とか先入観とかを削ぎ落としたかったのだろうと思います。

そして、それまでのジャームッシュ映画では見られなかったことですが、この「デッドマン」では血のイメージが非常に濃いような気がします。瀕死のウィリアム・ブレイクが、死んだ鹿のそばに横たわり、その血を自分の体や顔に塗り付ける場面。ノーボディが同族の印としてか魔除けとしてか、ウィリアム・ブレイクの顔に血を塗り付ける場面。それから、ノーボディがウィリアム・ブレイクに向かって「お前は、血をもって詩を書け」という場面-------。

混沌茫漠とした中で、「血」→「生」→「死」という観念が、単純化され、くっきりと浮かび上がってくるのです。

ノーボディは、「空と水が接する、鏡のような場所」に、ウィリアム・ブレイクを葬送します。まだ完全に死んでいるわけではない。死にかかって、頭がボーッとなっている状態で、インディアンの手作りの小さな舟に寝かされて、しずしずと水面を滑っていくのです。このシーンは、何て心安らぐ、静かで、美しい光景なのだろうかと思います。

私はそれほど自然志向の強くない人間ですが、このラストの葬送のシーンには、うっとりさせられました。これは、もしかして、映画史上最も羨むべき美しい葬式のシーンではないかとさえ思えるほどの、それほど幻想的で美しいシーンで、ジャームッシュ監督は、このシーンを撮りたいという、その一心で、忍耐強く、途中の話を作っていったような感じすらあるなと思えました。

「死」や「霊魂」が物語の軸になっているところは、それまでのジャームッシュ映画にはないところですが、しかし、一貫しているところもあるのです。それは、ジャームッシュ監督は一貫して「アメリカ探し」をやっているということです。「アメリカの潜在意識」を探っているのです。

ジム・ジャームッシュ監督は、静かな内気そうな顔をした人ですが、その体は思いのほか大柄で、骨太で、ワイルドな印象だ。「デッドマン」で、ジャームッシュ監督は、自分の顔ではなく体の自画像を描いてみせた、という感じがするのです。

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