空を見上げたくなる小さな物語たち - 空の冒険の感想

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空の冒険

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空を見上げたくなる小さな物語たち

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
4.0
設定
4.0
演出
4.0

目次

短編集とエッセイの両方楽しめる作品

この「空の冒険」は、ANAの座席に座ったときに前の席の背もたれのポケットに入っている雑誌「翼の王国」に連載した短編とエッセイを一冊の本にまとめたと書かれている。となればこのタイトルも、なるほどと納得のタイトルである。何度かANAに乗ったことはあったけれど、吉田修一の作品に出会ったことがなかった(もしくは見落とした?2008年から2010年までなら何度かANAに乗ったのだけど、ニアミスしたのだろうか。これはちょっと残念である)。この「空の冒険」には短編12作、エッセイが11作収められている。いつもは作家ありきで本を読むので、短編なのか長編なのかエッセイなのかさえ知らずに読むことが多いが、この作品については短編集だということは知っていた(とはいえエッセイまで入っていることは知らなかった)。失礼ではあるけれど、彼の短編集にはそれほど身につくような良さといったものを感じたことがなかったので、さほど期待せずに読んだ。吉田修一の作品には多くの名作があるけれど、こと短編となるとそれほどのものではないというイメージもあった。ややもすればスタイリッシュになりがちな文章と表現に若干の苦手意識があり、この本もその範疇を超えないかもという思い込みもあった。だけど、それはかなり早い段階で裏切られることになる。

小さな日々の煌きを切り取った物語

ここに書かれている短編は、目をひくような恋愛もなければ奇跡も感動の涙もない。取り立ててなにもない日常が舞台で、主人公は極普通の人物たちだ。だけどその毎日にも小さなドラマがある。それは誰にでも起こりうる小さなドラマだ。吉田修一はそのような小さなドラマを切り抜くのがうまい作家だと思う。今まで読んだ短編にもリアルだからこそシンパシーを感じる出来事が切り取られていることが多かった。今回の作品はそれが顕著なように感じた。
「翼の王国」に連載された短編ということもあり、旅にちなんだ話も多くある。飛行機に乗って恋する女性に会いにいった男性の話、明日から北海道にいくという女友達を思って書いたメールなど、ついつい読み手も空の向こうに思いを馳せてしまう。もし外でこの本を読んでいたら本を置いて絶対空を見上げたことだろう。そしてそうすることによって、現実から離れて心が安らかになったに違いない。働いているときは外でランチなりお弁当を食べるなりしていたので、その時には当然文庫本は必須だった。その時に読む本は働いているからこそのイライラや辛さを忘れさせてくれた。
この本もそういう時にこそ読むべき本のような気がする。日常から少し離れたい時に読む本。それは「空の上で読む」といった非日常のために書かれた本だからこそ、余計そう感じるのかもしれない。

「女が階段を上る時」

この「空の冒険」の一番初めに収められている作品である。平凡極まりない少女がアイドルにあこがれて上京し、そのアイドルの浮き沈みに合わせているわけではないけれど、自身の人生もなぜかそれにシンクロしてしまっている。そのアイドル本城真人が恐らく所属事務所が想像していたよりも売れなかったせいであろう、小さな事務所に移籍が決まったときにはこの主人公みつこの会社が倒産した。みつこが派遣社員で働き始めたころ本城は年上女性と逆玉の輿結婚をした。なぜか自分の人生のターニングポイントには彼もなにかしら人生のイベントがあり、それらが交差しながらうまく描かれているのがとても心地よく、リアルに楽しめた。
一番印象に残っている場面は、その本城が占い師に彼の人生のすべてが中途半端だとけなされているテレビをみつこが見てしまったところだ。上京を決めるほどに彼に憧れていたみつこにとって、本城が中途半端だということはイコール、自分自身も中途半端だと思わせたのだろう。同じ状況に身をおいたことがない以上気持ちが分かるとはいえないけれど、その惨めな気持ちを想像するのは難くない。
しかしこのことがみつこの生き方を変えたように書かれているけれど、それまでみつこは決して浮ついた生活をしていなかったと思う。確かに派遣という働き方に対してさほど危機感を持っていなかったかもしれないけれど、それはあの年のあの女性なら当然のようにも思うし、むしろ厳しい体験をしたのではないかと思う。
それに本城自身も売れて調子に乗った芸能人でもなく、売れないなら売れないなりに努力しているようにも見受けられる。いわば双方とも運がなかったのか、どちらともあまり人生に華がなく生きてきた印象ではある。
結果、派遣を切られたみつこがその後見つけた仕事先で必死になって働いてレストラン一軒を任せてもらえるまでになったとき、本城が客で現われる。その時の本城もみつこもきっと若いころとは違った魅力と、若いころにはなかった自信にあふれていたに違いない。華がなく生きてきた二人だったけど。もしかしたら今現在がもっとも輝いているのだろうと思わせるラストだった。

「恋人たちの食卓」

この話も好きだ。主人公の航は香港出身のビビアンという彼女がいる。彼女の香港の家に航はもう3度も訪れている。そしてビビアンの姉妹たちの夫たちもアメリカ人と韓国人とインターナショナルである。ビビアンの父親は老舗レストランの腕利きコックで、皆が集まるときには腕をふるうといういかにも楽しそうな場面が続く。この物語はその食卓での話がほとんどなのだけど、その食卓の場面が映像のように頭に浮かぶ。集まっている人々の母国語である広東語、英語、韓国語、日本語が飛び交うのだけど、それぞれのパートナーが首尾よく通訳してくれるのでさほどの支障もなくコミュニケーションが取れている様が脳裏に浮かぶのだ。それはビジネスでは絶対そうはいかない。ある意味以心伝心的な感情がベースとしてあるからこそ成立する空間だと思う。それは奇跡的なものだ。
私も何度かそのような小さな奇跡に出会ったことがある。インドで友人に食事をご馳走してもらっているとき、英語とヒンディー語と日本語が交差する中、驚くときは同時だったし笑うときも同じだった。英語でしゃべってヒンディー語で返事され、それに日本語で返事しているようなカオスだったにもかかわらず、なにかすべてつながっている気がした。それは心を許していなければできなかったことだと今でも思う。そのような食卓がこの物語では色鮮やかに表現されており、なにか無性に旅に出たくなってしまった。
だからこそ「翼の王国」に乗せられた話なのだなと納得した話でもあった。個人的にこの話はとても好きな話だ。

吉田修一のエッセイ

彼のエッセイを今回初めて読んだ。「翼の王国」に乗せる話らしく、すべてが旅にまつわるものとなっている。一番初めの話はラ・ボルというフランスのビーチに行く話で、どうしてこれが一番印象的だったかというと、TGVで一人知らない人と向かい合わせに乗るのが気詰まりだという彼に「だからこそ『恋人までの距離』みたいな物語が生まれるんですよ」とライターに言われたというくだりがあったからだ。「恋人までの距離」は私の好きな映画のひとつだ。今まで何回見たか分からないくらいあの世界が好きだから、そのような映画がぱっとエッセイに出されたことが何か嬉しく、吉田修一の好感度自体も数ランク上がったくらいだ。
旅にまつわる彼の描写は、正直これよりも面白くない話がたくさんあるなというくらい興味深かった。テンポもよく、時に笑いあり、あの「吉田修一 画像」で出てくるあの画像は個人的にあまり好きではなかったのだけど、それを払拭するくらいこのエッセイは読み応えがあった(個人的には「日曜日たち」とかよりもエッセイのほうが大分上だと思う)。
最後彼の作品である「悪人」の舞台を巡る旅の話もある。あの話はいささか殺人者を美化しているようにも感じられたが、全体的に重く後味が悪く、気に入っている作品だ。その舞台を巡る話はあの小説を読んでいる分情景を思い浮かべることができて、あの灯台の寒々しさも感じることができ、読んでよかったと思う。また五島列島の美しさは奥田英朗も力をこめて描いていたのを覚えている。吉田修一もその美しさを描いていた。ここは一度行ってみたい。
プロローグで吉田修一自身が書いていた「空で読むために作られた不思議な雑誌」のために書かれたこの小さな物語たちは、まさしく空の上で読むのはもちろん、深呼吸して空を眺めるきっかけになる本でもあるのではないかと感じた。

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