ダイジェストじゃない! ブラッシュアップしつくした、これぞ1stガンダム完結編!
目次
かっこいいぞ! ガンダム!
冒頭のキャメル艦隊との闘い、セイラ、カイ、ハヤト達も奮戦するが、何と言ってもガンダムのアムロである。
ほとんどスーパーロボットものと言っていい活躍だ。
続くコンスコン戦では更に無類の強さを見せる。
この見せ方が映画として実にかっこいい。
テレビ版機動戦士ガンダム放送当時、マニアはそのリアルさに注目し、心酔していた。そのマニアたちの間では旧来のスーパーロボットに使われた言葉「かっこいい」は禁句のような扱いだった。
だが、今見て純粋にかっこいいと言える。
全編に戦闘シーンは良くできている。
最近製作されたTHE ORIGINの映像は、宇宙戦闘シーンがフルCGで、金掛かってるなーとは思うが、本作はセルアニメである。正直絵の乱れは少なくはない。
それでもなお、「当時としては」などという控えめな表現ではなく、今尚、十分にかっこいい。
戦闘シーンだけではない。
哀戦士編で成長したカイが、なんともいい味を出している。
作戦会議の内容をエレベーターで話すアムロ、セイラ、カイ、このシーンは実戦部隊のエース3人の会話、という風格がある。連邦の盾になって死ぬのは嫌だ、と語り、ザビ家打倒後は連邦も倒すか? と提案する彼は、さながら若き革命家である。
ララア・スンという存在の解釈
テレビ版では後半の作画の乱れが多く、正直なところララアが美しく描かれたシーンは少なかった。しかしそこは真のヒロイン、本作ではララア登場シーンは殆ど書き直されており、格段に美しいシーンが増えている。
それが如実に見えるのが湖畔での初登場シーンだ。
雨宿りするアムロがふとふと気づいた、物憂げな少女。
彼女は一羽の白鳥の動きをじっと見つめているが、突然話しかけてくる連邦軍の制服を着た少年に物おじせずに自分の気持ちを語る。
アムロと我々が、なんて美しい少女なんだ、と息をのんだ時、立ち上がって彼の目を覗き込む。
雨がやんで光がさして来るシーンでは、先ほどの悲し気な表情は消えて、爽やかな笑みを浮かべて走り去る。
完璧な登場シーンだ。
ララア・スンの登場シーンは1stガンダム全体の中ではごく少ない。
しかし、孤高とも言えるレベルに達したアムロと同等に覚醒したニュータイプとして描かれ、後半のヒロインポジションを引っさらう。
そして、時間さえ支配するという人の未来を垣間見せ、誰よりも早く死んでしまう。
後のZガンダムや逆襲のシャアではアムロとシャアは数年たってもまだ彼女の幻影から脱しきれずにいる。
そのため、この後ガンダムワールドでほぼ聖女のように扱われる。
しかし、冷静に考えてみよう。
彼女は強力なニュータイプという以外はどのような存在だったのか?
ガンダムとエルメスの対峙シーンで、守るべきものが無いのに無敵の強さを見せるアムロを責めるララア。
彼女自身は自分を救ってくれたシャアを守るために戦っており、それが人の生きるための真理と言う。
果たしてそうなのか?
この場面に先駆けて、ホワイトベースのクルーたちが自分たちが戦う意味について語るシーン。
アムロは、戦う理由は曖昧でいい、人間は環境に合わせて変わっていく、人類の革新は自然と進んでいくのだから、それを阻止するものとこそ戦うべきなのだ、と語っている。
これは劇場版のみに追加されたシーンで、これがあることで本作のニュータイプについての在り方がブラッシュアップされていることがわかる。
以後の作品でも体制の下で戦うアムロと、世界の革新を早く進める事を願うシャアは争い続ける。
シャアのように革新を急ぐ人々、体制側の腐敗を許せない人々からすれば、アムロは良い子代表と映るかもしれないがそうではない。
彼は、人類の革新は一定の環境さえ守っていれば自然と進んでいく、理想のためとはいえ、虐殺をしてまで物事を進めるのは愚かなことだ、と肌で感じているのだ。
アムロがそれを語った直後に、ララアはシャアにキスをし、彼の身を案じてノーマルスーツ着用を勧める演出がある。
わかりやすく整理しよう。
ララアは能力としてはアムロと同等でありながら、愛情故にその能力を使っており、人類革新の方向性などは捉えておらず、自分自身をシャアの想いを成すための道具としてもいい、と考えている。
一方アムロは、新しい環境を阻害する目前の敵を排除していけば自然と人類は覚醒していく、と考えている。
このように並べれば、アムロこそ人類の革新を目指す大義を持って戦っていると言える。
家族、愛する人、国家、そのような一定の枠を守ろうとする以上、人は戦争から逃れられない。枠を守るという行為は枠外の他者を排除するという事だ。
愛に固執するララアは素養として優れたニュータイプなのに、行動は旧来の人間そのものなのだ。
タラればの話になるが、無敵とも言えるララアのエルメスとアムロのガンダムが結託して、戦争の根源であるザビ家を打倒し、それから新しい世界を考える方法もあったのではないかと思う。
人はいつか時間さえ支配できる、そう感じた二人が、国家の枠を乗り越えられなかった。
これに気付けなかったことこそが、この一年戦争の悲劇であり、ガンダム世界の今後の混乱を生み出していく。
クローズアップされるザビ家
短い尺の中で上手くまとまっているな、と思えたのはザビ家の人々の関係性だ。
デギン・ザビがジオン・ダイクンを暗殺し、ジオン公国を設立した経緯が会話の中でスムーズに語られ、そのデギンも老いとガルマを失った悲しみから、戦争終結の和平交渉を試みる。
ジオンを守ろうとするドズル、独善で暴走するギレン、それに拮抗するキシリア、哀戦士編まではさほど語られていなかったのに、ここで倒すべきはザビ家、との印象付けが明確になる。
それでも尚、彼らも悪の権化ではない、と示すエピソードが挿入される。
妻子を想うドズル、シャアとキシリアの謁見シーン、これらの場面は人間である彼らを上手く表現しており、群像劇としてのガンダムの深みを増す。
近年、ジオン贔屓のガンダムファンが増えているという話をよく聞く。
想えばその流れを生んだのは、自分たちの言葉で思想を語るザビ家の存在が際立った、このめぐりあい宇宙の影響が大きいのかもしれない。
比較して地球連邦側には、今後の人類の在り方を語る人物は稀であり、比較的柔軟な考えを持っていると思われるレビルも本作で帰らぬ人となっている。
これに続くZガンダムの影響もあるのだろう。
地球連邦=無能または腐敗の温床と受け取れるような演出が目立ち、連邦側で理想を持つのは下級兵士ばかり、という構図が多いことも一因だろう。
年数を経て見る価値=テレビ版ダイジェストではなく一本の劇場作品
放映当時は、ガンダムマニアだった人間としては、どうしてもテレビ版との違いを見てしまいがちだった。
しかしこれだけの年月が流れて、とさすがにテレビ版の細部の記憶は風化しており、シンプルに映画として見ることができる。
めぐりあい宇宙は劇場版としての出来は非常に良いと思う。
一作目はお話にならないほどお粗末だった。
二作目哀戦士編では、編集の仕方が単なるダイジェスト版ではなく、映画としてある程度向上はしていたが、無理にエピソードを詰め込んだため消化不良感が強かった。
そして本命の本作である。
ニュータイプに目覚めつつあるアムロがララアと出会うことで更なる覚醒を遂げ、人類の革新を感じさせる、という主軸を際立たせるために枝葉を上手くカットしている点は明らかな向上だ。
そこに戦争の根源であるザビ家を丁寧に描き、ニュータイプの新世界と打倒ザビ家を目指すシャアが上手く絡んでいる。
このように書くと、まるでホワイトベースのクルーはおまけのようであるが、それも違う。
ララアからは守るべきものが無い、と指摘されるアムロだが、このホワイトベースの仲間たちがアムロやララアほどではなくてもニュータイプに目覚めつつある事実を示し、その人々が生き残って明日の社会を作っていくのだ、という希望を残す。
いつの世も新しい世界を提示するのは革命家と一握りの天才たちだが、実践していくのは平均的な能力を持つ一般市民なのだ。
その市民たちが平均的にニュータイプとして目覚めていくという演出こそが、クライマックスの意味だ。
演出の向上点をもう一つ上げるとすれば、挿入歌の使い方だろう。
哀戦士編では挿入歌風にひとりでが3回かかり、かなりしつこい印象を受けた。
アムロが砂漠を彷徨うシーンには実にマッチしていたが、他のシーンで使ったのは、いただけない演出だと思う。
本作ではエンディングに流れるめぐりあいもいいし、挿入歌ビギニングの使い方も良かった。
ララアと初めて逢うシーンでバックに流れているけれど、聞き取れない歌詞。
何と言っているのかと思わせて、ララアを印象付けた後雨が上がり、そして始まる 愛、という歌詞でボリュームアップ。歌詞と画面演出がそのまんまやんけ、とは思うが、そして時が健やかに温める愛、という歌詞とともに走り去るララア。
哀戦士編ではマチルダ、ハモンという年上の女性へのあこがれを表すシーンが多かったが、所詮恋愛対象ではなかった。
アムロが初めてであった、愛の対象となりえる少女、それがララアだったのだ。
そんな運命的愛が始まった、と思わせる演出、秀逸である。
ただし、ジオングとガンダムの対峙シーンでめぐりあいをかけたのは失敗だった。
ここで、敢えて二作目の哀戦士を流せば、視聴者も歓喜するし戦闘シーンの臨場感も上がったのではないか。
主題歌めぐりあいはエンディングのカタルシスを上げるために、最後まで温存しておくべきだったのだ。
やっぱりニュータイプを議論しないで本作は語れない
本作ではホワイトベースのクルーたちも、少しずつニュータイプとして覚醒していく。
敵の気配などに気付くシーンなどで、不思議とミライの方がセイラより先であることが多い。
これは意図的演出なのだろうか?
私の勝手な予想だが、兄キャスバルとの関係に固執するという行為が、セイラのニュータイプとしての覚醒を妨げているのかもしれない。
一方ミライはスレッガーを失ってこだわりの対象を欠いており、それが彼女の目覚めを加速させたのかもしれない。
その理屈はシャアにも当てはまる。
打倒ザビ家とそれを成し遂げた後の世界を考えるシャアも、固執するものが多いがために覚醒が遅れたのだ。
あるいは大事な人の死による虚無感や虚脱感と、モビルスーツや高速戦闘機を駆って戦場で神経を研ぎ澄ますことが覚醒を促すのかもしれない。
アムロは敵にせよ味方にせよ、多くの人の心情に関わってしまう傾向がある。
マチルダ、リュウの死はホワイトベースのクルー全員が共有しているが、彼はそれに加えて、敵であるランバ・ラル、クラウレ・ハモンともいくつもの言葉を交わしており、ジャブローではウッディ大尉との交流も持っている。
対極的に近しい人の死が描かれることが少ないのが、ハヤトとブライトだ。
二人は同じように戦場を駆け巡っているが、深く関わった人の死が描かれていない。
カイは明確にミハルの死を早い段階で経験しており、アムロに次ぐエースに昇格している。
この理屈で言えばアムロ→カイ→ミライ→セイラ→ハヤトという覚醒の度合いと順序はかなりうなづける。
ララアは過去の事が描かれていないが、シャアに救われた、という言葉から推測するに、幼少時から貧困の中にあり、家族や近親者の死を目の当たりにし続けた可能性は高い。
シャアもララアを失う前にもニュータイプ覚醒の兆しは見せているが、超感覚と呼べる能力を得るのはララアの死後だ。
シャアが時代の成り立ちについて考えるよりも先に、ニュータイプとして覚醒し、肌で人類の革新を感じていれば、物語は違う展開を見せたのだろうがそれも所詮仮定の話である。
かくして1stガンダムは完結した
多少のアラはあっても、本作は1stガンダムという一大叙事詩の堂々たる完結編として不朽の作品として輝いている。
ニュータイプという人類の可能性を我々に提示し、多くの人の生きざまを見せつける群像劇の味わいを残し、何のために戦うのかというロボットアニメ特有の問いに答え、主人公が多くの主要キャラを危機から救い、誰もが感じられるカタルシスを与えてエンディングを迎える、という理想的なラストシーンをアニメ史上に残した。
総監督である富野氏は、この頃アニメは卒業して現実に生きろ、という意味の言葉を多く残しているが、そこは我々が還る世界として今尚生きている。
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