劇場版ガンダム二作目、今見て思うこと
映画版一作目はとにかく出来が悪かった!
正直なところ、映画版一作目は、劇場公開されただけのテレビ版を再編集した総集編に過ぎない。
流行りだったから、一大ムーブメントを起こしたガンダムだったから、もちろん客は来た。
だが、基本的には単なるダイジェストであり、しかも中途半端なところで終わる作品でしかない。
これは当時としても微妙な評判だった。劇場で見終わった全員が、まあ、ガンダムだよね。
大画面は良いよね、という反応だった。
新作カットもわずかしかなく、再解釈、新解釈も何もない。
と、いうのが当時の大勢だが、その後ハリウッド映画として人気を博したバックトゥザフューチャーとか、ロードオブザリングとか、引っ張りまくりの連続モノの事を考えれば、欲張りすぎだったのかな、という考え方もある。
そんなこんなで、劇場版ガンダム二作目、哀戦士編、今見たらどうなのか、を検証していこう。
タイトルってヤマトへの対抗心?
これは確証がない話であり、私の予想である。
哀戦士という言葉は無論造語である。
戦場で散っていく悲哀を物語っているのだろう。
劇場版一作目では目立って死人は出なかったが、本作ではマチルダ、リュウなどのホワイトベースに関わる人や、ミハル、ランバラル、ハモンなどの人々も戦場に散っていく。
それを表しているのは誰が見ても分かる。
だが、間もなく50歳になろうとする私の世代であれば知っている事と思うのだが、ガンダム以前のロボットアニメは愛や正義のために戦っていた。
そしてガンダム以前の代表的SFアニメといえば宇宙戦艦ヤマトである。
ガンダムはヤマトを超える事を目標に掲げて作られた番組だったと言っても過言ではない。
ヤマトもが劇場公開されており、一作目はガンダム同様テレビ版のダイジェストだったが、その続編として劇場版で初公開のさらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たちが公開され大ヒットしている。
それを踏まえて、同じ二作目だし、そもそもアンチヤマトで始まったガンダムだし、ここは古臭い愛を声高に語る嘘くさいノリではなく、戦場のリアルを表す哀で行こう!
富野由悠季はそのように思ったのではないか、と私は思っている。
信じるか信じないかはあなた次第。
やたらと連呼されるニュータイプという言葉
テレビ版で後半になって突然出た言葉という反省なのか、やたらとニュータイプという言葉が連呼される。
レビルが、ブライトが、黒い三連星が、マチルダが、ニュータイプという言葉を繰り返す。
ちょっとやり過ぎ感があり、耳タコである。正直言ってうっとおしい。
例えばスターウォーズのフォースなどはもっと自然に使われている。
この哀戦士編の時点ではニュータイプはその世界にまだ馴染んでいない、都市伝説的な言葉なのだろうが、それにしては画一的過ぎる。
肯定か否定か、オールオアナッシングに見える。戦争に疲れた誰もその出現を望んだ、と永井一郎のナレーションでも語られる。
話はわかるのだが、もう少し理想論を語る人とかファンタジックに受け取る人も出て良いのではないだろうか。
例えば、以下のようなガールズトークをいれるとか。
フラウ「ニュータイプって人の考えが読めたりするんですかね」
セイラ「ジオン・ダイクンは認識力や洞察力の向上で、より深く理解しあえる人々…とか言ってるわね。読心術やテレパシーとは違うと思うけれど、どうかしらね」
ミライ「フラウ・ボウは特定の人が何考えてるか知りたいのよね」
赤くなるフラウ「え、えぇっと」
セイラ「何、どういうこと?」
ミライ「知りたいんでしょ、アムロのことを、もっと」
そんなんじゃ、ないです、と否定しつつも明らかに照れながらキッカ達の世話に戻るフラウを見ながらひとり心に父を想うセイラ
『戦争の便利な道具、そんな概念を提示したはずはないんだけどね、父さんは』
上記の同人誌的な展開を書いていて思ったのだが、本作のフラウはなかなか可愛い。
艦内の男子をくぎ付けにするマチルダに嫉妬し、ハモンが見ているから手を離したのね、と不平を漏らす。どんどん私から離れて行っちゃうのね、というセリフもいい。
更に、男性視聴者には大変大事なことだが、他の女性兵は白いタイツを履いているのに、フラウだけ超ミニスカ&生足である。信じられないサービスである。
アムロはいったい何が不満なのであろう。
年月を経て感じること
ミハルと弟たちのエピソードは、当時は古臭い気がした。戦争で親がいない子供たち、というシチュエーションが70年代くらいまでのコンテンツに多かったからだろう。
80年代に突入して、小綺麗なものやスマートなものが好まれる時代になったのだ。
しかし、今見ると逆にしっくりくる。
80年代から90年代は文化も思想も欧米に追随していたので、ソ連のアフガン侵攻なども我々はあまり気に留めなかった。
この時期にもイランイラク戦争、フォークランド紛争などが勃発し、レバノン内戦は10年以上も続いているのだが我々はそこに注意を向けていなかった。
しかし、今、我々は紛争や内乱、テロが世界中にあり、子供たちがその影響下にあることを知っている。
そんな現状を踏まえてミハルの弟たちを見ると実にリアルだ。
ガンダムってやっぱりリアルなのだ。
例えば、あと20年後にエヴァンゲリオンを見るとどう思うだろうか。
90年代はその時の若者のピンポイントのリアルを書いているので、おそらくだが、なんだこの変な人たち、この時代ってこうだったの? と思ってしまうのではないだろうか。
しかしガンダムは20世紀の戦争のリアルを書いたのだ。
改めてそのすごさを思い知った。
話が出たので、ジルとミリーについて少し語ろう。
ミハルは死後のイメージシーンで「あの子たちなら、大丈夫、うまくやるよ」と言っているが現実にはどうだろう。
ミハルはホワイトベース潜入前に、今度は長くなると二人に告げたので、おそらく姉が帰らぬ人となったことに気付くのは数か月後だ。
いくらかの金を置いていったようだが、何年も暮らせるような金額ではないだろう。
宇宙世紀年表(http://www.interq.or.jp/jupiter/mcmurd/uc1.htm)によれば、ホワイトベースがベルファスト基地から出航したのは0079年11月21日、一年戦争終結は一か月後の12月31日、この時点で彼らはまだ姉の帰りを待っている。
彼らが住むベルファストはアイルランドの主要都市である。
戦争終結後、この都市がどうなったかは明確ではない。
ガンダムシリーズの多くで語られているように、ジオンの残党が起こす小競り合いは無数におこったようなので、それに巻き込まれているかもしれない。
あるいは苦学して普通に働く術を得たかもしれない。
Zガンダムの脚本を務めた遠藤明範が書いた「フォウ・ストーリー」という小説では二人は不幸なその後をたどっているが、それは公式ではないので無視したい。
希望を述べるならば戦争終結後にカイ・シデンが引き取り育てた、というのが最も順当だろう。
カイは戦後ベルファスト大学を卒業してジャーナリストになった、と言われているのであの場所に行かなかったはずはない。
無事めぐりあえて保護されていればいいのだが…
仮にカイに巡り合えず、何とか故郷の町で暮らしていたとしたら、次なる困難が彼らを襲っている。
宇宙世紀0088年10月、8年後にネオ・ジオンによって同じアイルランドのダブリンにコロニー落とし攻撃が行われているのだ。
ダブリンとベルファストの距離はおよそ170km、一年戦争初期に実行されたコロニー落としではオーストラリア大陸の16%が消失し、直径500kmのクレーターが出来たたらしい。これと同等の被害が出ていれば間違いなくベルファストも壊滅している。
しかしZZガンダムの画面描写では、爆心地周辺でも建物は半壊している程度なので、上記のオーストラリアに比べればかなり被害規模は小さいと言える。
彼らの無事を心から祈るばかりである。
冷静に考えると矛盾してるウッディ大尉
今まで疑問に思わなかったけど、ホバークラフトごときでズゴックに立ち向かうウッディ大尉って、アムロに言ったあのセリフと全く合わない。
「うぬぼれるんじゃない、ガンダム一機の働きでマチルダが助けられたり、戦争が勝てるなどというほど甘いものじゃないんだぞ!」
…ホバークラフトでノコノコ前線に行くって、どう見ても俺が気合で何とかしてやる!でしかない気がする…
名シーンなのであまり揚げ足取りはしたくないが、彼の思想に関わるこの矛盾はちょっといただけない。
揚げ足取りついでにもう一点。
テレビ版を継ぎはぎした都合上、マチルダが黒い三連星のオルテガによって殺された直後に、ハモンの猛攻を受ける。この時アムロはマチルダの死を引きずっていてぼんやりしていたがためにハモン隊の接近を許している。
奮戦するガンダムだがハモンに背後を取られ、絶体絶命のピンチ!
それを助けるために命を落とすリュウ。
どう見たってハヤトの過失よりアムロの失態が大きいのに、いきなりハヤトを責めるアムロ。
それなのに、オデッサ作戦終結後戦死者への敬礼、のシーンでアムロが叫ぶのは、マチルダさぁ~~ん!! である。おかしいだろそれ、リュウも同じオデッサで死んでるんだってば! と突っ込んだのは私だけではあるまい。
結局どうなの? 哀戦士編
エンドロールの後、本編中に流れるめぐりあい宇宙のタイトル。
言うなれば本作は2時間13分を使っためぐりあい宇宙の予告フィルムであったのだ!
その前提で言うが、まあ、結構面白かった。
記憶していたより白兵戦が多く、かっこいい。全体のテンポもいいし、単なる名場面集でない、一応再編集した感はある。
後半は新作カットも多く、絵もそこそこのレベルを維持している。
主題歌、哀 戦士もピアノの伴奏が疾走感があり、モビルスーツの戦闘に良く似合う。
まあ、映画として名作といえるレベルではないが、3部作の2作目としてはまずまずの出来ではないだろうか。
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