やり残してきた仕事がある大人の心を揺さぶる一冊
傷を負っていない人間も、強くやさしくなれるのか
「兎の眼」という一風変わったタイトルだけは、ずっと以前から知っていたのですが、
ストーリーについては一切知らなかったので、先入観を持たずに読むことができました。
1974年に発表された社会派小説である本作の主な舞台は、小学校と、そこへ通学する幾人かの子どもたちが暮らす塵芥処理所です。
今でこそ、多くの塵芥処理所は、窓の少ない大きな高層の建物の中でゴミの処理を受け持ってくれていますが、
この物語が書かれた当時は、様々な事情を負いながら、仕事場のすぐ近くに住居が持てますよと役所から言われた人々が、
夏も冬も灰を浴び続ける生活の中で、処理を受け持ってくれていた様子がよくわかります。
作者の灰谷健次郎さんは、17年の小学校の教師の経歴を持ちます。
これほどの小説を書く灰谷さんがどうして教師を辞めたのか。
今の時代に作家について書籍で調べたり、インターネットで検索をすることは容易です。
しかし私は敢えて、それを調べることをしないまま、この小説を読み終えました。
彼はうんうんと唸りながらこの小説を書いたのだろうとわかるのです。
だから、小説の一字一句から、灰谷さんの世界を理解することを願いながら読みました。
傷を負っていない人間や、鈍さのために傷に気付くことのない人間も、人として強くやさしくなれるのか。
人は、自分が置かれていない立場にある人の思いや境遇を、はたして本当に、おもんぱかることができる生き物なのか。
この疑問は「兎の眼」を読む以前から私の心にありました。
人と人の境界を、人はどこでどうやって超えることができるのか。
この小説にはどこかにその答えがあるように思えて、その疑問をずっと、心の中で繰り返しながら読みました。
小谷先生のように生きたい
この物語の魅力は、バクじいさんや、奈良の西大寺の善財童子の彫像、そして足立先生という、
輝くほどの力強さを持っている存在や人々に、
若き教師、小谷先生が、自身のアンテナの感度を鈍らせることなく反応させながら奮闘するその姿にあります。
善い存在や善い人物から影響を受けられるかどうかは、本人の感度や、生きる志によるところが大きいですが、
「兎の眼」では、そういった感度と志を持つことの意味の大きさを、物語を通して幾度も幾度も読者に投げ掛けます。
挫折し、希望を捨てそうになったり、自分の中に大切に持っていた誠実さや賢明さというものを手離したくなるタイミングが
幾度も幾度も襲ってくるのが人生です。
そういうつらさに負けて、人間が変わってしまうことはむしろ容易いことなのかもしれません。
しかし、バクじいさんが言う「抵抗」が、苦難に負けない真の強さを、読み手に届けるのです。
バクじいさんや、足立先生が、心の中に仕舞っているそれぞれのあまりにも深い深い傷・・・。
彼らが、その深い傷を抱えながら生き続けることがどれほど苦しいかを「兎の眼」を読みながら想像することができたなら、
その読者はきっと、小谷先生のように感じるはずです。
「自分も、もっと、強く生き抜いていきたい」と。
バクじいさんの背負った壮絶な過去や、足立先生が生涯を掛けて後悔している思い。
そういった、自分は経験をしてはいないけれど、想像すれば、その重たさの一片でもわかる、そんな人物が、
小谷先生なのです。
そして、自分も小谷先生のように生きたいと、読者はやはり思うかもしれません。
やり残してきた仕事がある大人の心を揺さぶる一冊
「兎の眼」では、強いとかやさしいとか、そういった観念的な表現は多用されません。
そのかわりに、ひたすら、具体的な表現や出来事が灰谷さんのうんうんと唸った筆によって紡ぎ出され、
読者はその中に、人が強いとはどういうことか、人がやさしいとはどういうことか、を感じ取っていけるのです。
色が白くてきれいで、お医者さんの一人娘で、若くて新婚で。
揺るぎない自分をここまで持たなくても、それなりの幸せは手に入ったかもしれません。
でも、小谷先生にとっての、幸せとは、世の中の物差しで測る幸せではないのです。
いつも自分に、「私はこれでいいの?ほんとうにいいの?」と問いかけ問いかけ生きていく。
それが小谷先生の幸を築く姿なのです。
小谷先生は、教師として、一人の人間として、決してくじけないのです。
高度経済成長期に突入していく昭和40年代後半の日本。
その時代にこの作品を書いた灰谷さんの、先見性に、心を打たれます。
社会とは、仕事とは、文明が発展するとは、夫婦とは、人の絆とは、女性が働くとは、そして、人間とは。
物語のページをめくればめくるほど、灰谷さんの伝えたいことや問いかけに、
自分もしっかりと生きていくことで、懸命に答えたくなってしまいます。
そんな「兎の眼」は、やり残してきた仕事がある大人が心を揺さぶられる一冊です。
実は、やり残してきた仕事があるのは、私自身なのでした。
そして、この小説の読後の、今の私は、きれいごとでなく、もう一度、物語に登場する小谷先生や足立先生のように
自分の仕事に正面から向き合いたいと感じるようになっています。
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