ミンメイ最大戦速(マクロスピード)!!のコピーが絶妙 映画としての完成度高し!
テレビ版から大胆なリメイク それは常に責める姿勢の表れ!
1982年から放映され人気を博したテレビアニメ「超時空要塞マクロス」の劇場版として84年に放送された本作。テレビ版は斬新な要素でファンの心をわしづかみにした。その要素とは、ラブコメ、三角関係などの「恋愛」を主軸に据えたこと、バルキリー、マクロスなどのメカの奇抜さとかっこよさ、「歌」が戦いを鎮める力を持つというサブテーマのSF性と意外性、などがあげられるだろう。
私は敢えてここにもう一点加えたい。それは当時は既にベーシックでクラッシックとなっていた「機動戦士ガンダム」への対抗心だ。
テレビ版が「あのガンダム」を超えてやる! という気概を持って作られたことは明らかだ。
当時のアニメ界は神=ガンダムとそれ以外の作品、というすみ分けが成り立つほど、ガンダムへのリスペクトが強かった。ガンダムを超える作品はもう出ないのではないか、と思っていた人も少なくなかったのではないだろうか。それを超えると言うのは並大抵ではない、それが当時の常識となりつつあった。
しかし彼らは敢えて戦う道を選んだ。ストーリー、世界観、メカなどの小道具、全てが斬新でなければ勝てない、彼らはそう考えた。
それ故、本作はガンダム特有の重さ(ファーストガンダムは人類の革新を描いていたがまだまだ根性論をちりばめた昭和感がある作品だった)を排して、軽妙なラブコメを前面に出した。そのようにテイストは違う方向に行っておきながら、メカのかっこよさやSF性はより上を行こうとする、逃げずに戦う姿勢を貫いた。
その成果として、テレビ版ではガンダムを超えたとは言い難いとしても、「マクロス」という言葉を一大コンテンツあるいはジャンル名にまで昇華させた。
それを踏まえての劇場版、今度は大人気だったテレビ版を超えるという高い山に挑み、再度それをやってのけた。
よくある話だがゼロスタートのチャレンジャーの時はなりふり構わず攻めるのでがむしゃらに勝利に迎うことができるが、一旦自分がチャンプになってしまうと、そこにプライドや自分のスタイルへのこだわりが発生してそこを超えることは難しくなる。
だが彼らは再び戦う道を選んだ。
人気を博したテレビ版の要素をほとんど見直し、当時はセオリーだったテレビ版のダイジェストとしての劇場版という作りに甘んじることなく、一本の映画としての完成度で勝負したのだ。
以下、彼らが何に挑み何をやり遂げたのかを具体的にあげよう。
メカについて
テレビ版のエポックメイキングをメカに絞って語っておこう。
主役メカバルキリーとマクロスが、斬新でかっこいい上に玩具としての出来がいいという三拍子そろっていたことは本作を語るうえで外せない要素だ。
まず、バルキリー、戦闘機形態が実在のものに限りなく近いリアルで実用的なデザイン、これだけでも秀逸だったが、それが人型に完全変形するところが凄かった。
合体・変形はロボットアニメファンの夢でありロマンだ。ゲッターロボに代表される、「ありえんやろ」とツッコミを入れたくなるような謎変形ではなく、本当にかっこいい戦闘機がかっこいい人型になるところを玩具で再現できる、というのは長い日本のアニメの中で本作が最初であり、いまだにこれを超えるメカは少ないと言えるほど見事なものだった。更にその変形過程でガウォークという中間形態も生み出し、これも人気の一因となった。とにかく主役メカに関して、本作は目標としたガンダムを圧倒的に超えていると私は言い切れる。
更にマクロス、巨大戦艦が人型に変形するという発想は同時期放送された「戦闘メカザブングル」で8か月ほど先を越されてしまったが、何しろ斬新である。
ザブングルのアイアン・ギアーはあくまでも主人公たちの家と母艦機能を併用するものでガンダムに登場するホワイトベースと役割は同じだったが、マクロスは完全に都市であり、ダイダロスアタックをはじめとする絵面も斬新だった。
さて、今回の映画版についてはどうか。
私が考察するに、メカに関して、今回は特別なチャレンジをしなかった、と思う。
2時間という枠の全てを輝、未沙、ミンメイの関係性と歌(文化)が抗争を鎮める、というストーリーに降ったため新たなものに力を入れる余裕がなかったのかもしれない。
各メカのデザインは劇場用に細かくなってはいるが、大差はない。オタク性に走りすぎず、しかし画面上での各メカの動きは凝りに凝った。それほどにバルキリーという存在が完成されたものであったとも言えるが、無理にそれを超えようとせず、冷静なハンドルコントロールに努めた製作者たちに「あっぱれ」を送りたい。
敵対関係、人間関係を見事に再構築
本作の凄さはテレビ版をあくまでもコンセプトとしてのみ扱い、人間関係や敵勢力との関係性も再構築した、という点に尽きる。
テレビ版ではかなり優柔不断なダメ男だった一条輝が、本作では少し軽いけれどもそこそこ筋が通った若者として描かれている。軍用機をデートに無断使用するという行為は完全にアウトだが、それ以外はシンプルで多感な若い男性である。あこがれのアイドルであるリン・ミンメイとの幸運な出会いに興奮しつつも、早瀬未沙との関係構築後はぶれることなくその愛を貫き、本来の立場である軍での役割もこなしている。テレビ版にこだわっていれば最終決戦のラストシューティングを輝が担う図式は無かっただろう。だが、3人の物語に絞った以上はこれしかなかったように思う。
恋愛のもつれはあっても、3人はそれぞれの役割で戦争を終結に導く。未沙は持ち前の知性で未完成の「愛・おぼえていますか」に歌詞を与えるし、ミンメイは自身の夢と存在意義である「歌うたい」であることを最大の武器として生きる決意をする。その行為自体が人類を救う、という想像を絶するプレッシャーを超えて、彼女は歌う。
そして劇場版では最初から軍人であった輝は、敬愛する先輩ロイ・フォッカーの後を継いでエースの称号スカル1を名乗り、戦いの根源にとどめを刺す。
男性軍ゼントラーディと女性軍メルトランディが何十万年も戦っている、という新設定も「愛」の存在がいかに大事なものであるかを語るにはわかりやすい構図だ。
戦闘終結後、目線を合わせることでお互いを認め合う未沙とミンメイのシーンも印象深い。それぞれがそれぞれのポジションで強く生きていくことを認め、自分は自分でよいと確信して彼女たちは大人になったのだ。(輝はミンメイとの再会を経ても迷わず未沙を選んだ時点で既に大人になっている)
本作はだらだら三角関係の面白さに拘泥してしまったテレビ版とは似て非なる成長ドラマでもあったのだ。
ちょっと苦言もある
当時も言われたことだが、随所にみられる惨殺シーン、これは必要なのだろうか?
私は当時も、再見した今も、全く不要、と言い切れる。
特に「愛・おぼえていますか」クライマックスで死者の首が切断されるシーンがあるが、何の演出意図があるのだろうか?
正直何も見いだせない。面白がってこのシーンを入れたのであれば、許せない行為だ。
戦争モノで人の死を書くのは当然だ。だが必要以上の残虐シーンを書くのであればそれに意味が無ければならない。戦争そのもの、あるいは特定個人の残虐性を表すという演出が必要なら要素としてはアリだと思う。例えばベトナム戦争や第二次世界大戦中のドイツの残虐行為を批判することがテーマの映像であれば、当然その許せない行為自体を描かざるを得ないだろう。
本作も「歌=文化が平和をもたらす」というテーマ性を持っているので、反戦の意味合いは存在はする。しかし、本作のメインはやはり恋愛である。その観点から考えて残虐シーンの意味は微塵もない。特にクライマックスの最もカタルシスを生むシーンで、何故あのカットを入れてしまったのだろうか。
褒める部分が多い本作だが、この点に関してだけは残念としか言いようがない。
そもそも論だが、フォッカーと柿崎の死も必要だろうか?
恋愛が基軸の本作において、戦争だから人が死ぬ、という当然の説教は陳腐に思える。
身を挺して自分を守ってくれた先輩の後を継ぐ、という構図が必要なら、大けがで入院、命はあるがパイロットとしては再起不能、などで十分なはずだ。
まとめ・彼らは何を成し遂げたのか
「マクロス」という存在が「ガンダム」のアンチテーゼである以上、どうしても比べざるを得ないので、無粋な気もするが劇場版としての優劣を敢えてつけよう。
ガンダムの劇場版は「めぐりあい宇宙」まで含めての名作ではあるが、1作目は単なるダイジェストであり、正直なところ非常に残念な出来だった。
ガンダム劇場版3部作は、テレビ版の構成を変えずに、可能な限りの修正を加えたという点で「新作」ではなく、よくできたダイジェスト版に過ぎない。
一方本作はどうか?
2時間の枠にまとめるために全ての要素を見直し、しかもきちんとまとめ切った、という点で映画としての出来では圧倒的に本作が勝っている。
この時、「マクロス」は「ガンダム」を超えた。そう言い切れる名作だ。
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