清々しいまでに新しい児童文学の皮を被った大人の小説
児童文学という形式に隠された作者の狙い
悪童日記は今や、いわゆる世界文学古典の一つとなっています。作者のアゴタ・クリストフはほぼこの一作をもって世界的な作家になったのです。
しかし、実際に読み始めてみると子供向けの児童文学のような文章が目に飛び込んできます。日本の文章がうまいとされる作家にみられるような複雑な比喩なんてものは書かれていません。
日記調ですし、本当にかしこい子どもが書いたくらいの文章のように思えてしまいます。
もちろん、これらの全てに作者の構想が詰まっているのですね。たとえば、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」の冒頭は幼児のような拙い文章ではじまります。これにも凄まじい狙いがありました。悪童日記の文体の狙いはアルジャーノンのそれほどわかりやすくはないのですが、深い効果をもたらしています。
私達は「世界文学」と聞くとドストエフスキーやジョイスなどの重厚長大で難解なものを思い浮かべ、身構えてしまいますが、悪童日記は違うのですよね。
誰でも読めて、誰でもその世界に入り込めるが、あまりに奥が深いという仕組みになっています。
小説には視点というものがあります。「私は」「僕は」「俺は」などを主語にする一人称小説と、「彼は」「〇〇は」などを主語にする三人称小説です。
悪童日記は一人称視点の小説なのですが、その視点が「ぼくら」になっているのがかなり珍しいです。ミステリーなどでそういう方法を使って叙述トリックを使うものは知っているのですが、普通の文芸作品で「ぼくら」などの複数一人称を使って成功している作品は悪童日記以外に知りません。
これは何もアゴタ・クリストフが奇をてらって取り入れたというわけではなく、ぼくらという人称を使うことによって、悪童日記でしかありえないような効果が得られているのです。
ないようである街を舞台にしている
語り手である「ぼくら」は戦争から疎開するために、「大きい街」からおばあちゃんの家にやってきます。
この「大きな街」というような語り方は、ファンタジーやSFにおけるディストピア小説でよく使われる表現です。このように抽象的に書くことで、悪童日記独特の世界観が形成されていきます。
ですが、この一見ファンタジー的にみえる世界には確固たるモデルがあるのです。
アゴタ・クリストフ自体が戦争による亡命を経験しており、その実体験が反映されているのですね。普通はそれをそのまま書くというのがある種の純文学の方法なのですが、彼女は全く違った方法をとったわけです。
実際にあった出来事を寓話のように描くという手法は、「百年の孤独」のガルシア・マルケスに通じるところがありますね。マルケスが描く寓話的なマジックリアリズムの世界は、実際に全て南米で起こった出来事を元に書かれていたのでした。
文体や構成が斬新というのもあるのですが、何よりも内容が衝撃的です。
悪童日記とタイトルが付いているように、悪童二人が視点人物なのですが、その悪童っぷりは全くもって純粋です。世界をあるがままに見ようとするために、悪童として機能してしまう二人の姿があるのですが、清々しいんですね。二人を取りまく環境は決してよいものとは言えないのに、文体で惑わされてしまうのです。
というか、児童文学の衣をまとっていながら、小学生くらいの子どもには読ませたくないような内容なんですね。大人の汚さも、性的なところも、全て見たままを正直に書いているのですから当たり前なのかもしれません。中学生くらいから読むのがいいと個人的には考えます。
衝撃のラスト
何よりも悪童日記を有名にしたのは、この衝撃のラストシーンがあったからでしょう。全てはこのシーンを描くために書かれてきたと言っても過言ではありません。
というか、これは物凄い物理トリックです。
ミステリーの世界においても同様のトリックを使うものはいくつか知っていますが、非ミステリ作品でこのような使い方をしているものは知りません。そして、ミステリ作品においてのそれはトリックのためのトリックに過ぎないものばかりでした。
悪童日記では最早それがテーマであり、同時に読者の心に刻まれるように描かれています。
国境を越えるためには地雷原を通る必要があるのですが、誰かを犠牲にしないと向こう側には渡れないんです。そして、二人は父親を犠牲にすることで、双子の片方だけが国を越えるのです。
村上春樹の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」のラストを想起しました。ぼくは世界の終わりの世界に残り、影だけが現実の世界に帰っていくものですね。
しかし、アゴタがやってのけたことのほうが小説的には難易度が高いです。
終始くっついていた双子のぼくらが、物語の最後で、自分達の意志で離れ離れになり分裂する――。古典的な物語論の観点からも完璧な構成ということができます。
小説に対し、辛口になってしまうこともある僕ですが、悪童日記だけは貶すところが見つかりません。
だから評価が全部5.0になってしまうのは仕方がないことなのです。
ただ、一つアゴタクリストフの悪口のようなものを言っておくと、続編の「二人の証拠」「第三の嘘」は全く面白く読めず、楽しめませんでした。
あまりにも完璧すぎる処女作に縛られてしまった作家だった、ということができるかもしれませんね。
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