父親はなぜ殺されたのかー『悪童日記』の読後感について
重たいテーマを読みやすくする、『悪童日記』独特の手法
戦争はもちろん、いじめや貧困、聖職者の堕落、倒錯的な性描写(ホモセクシャル、被虐趣味、獣姦)、ユダヤ人へのホロコーストなど暗い題材が目白押しであるにもかかわらず、この作品の読後感は悪くない。なぜだろうか。
『悪童日記』は第二次世界大戦中のヨーロッパ、ハンガリーと思われる国の小さな町を舞台にした小説である。とはいえ文中では具体的な描写が意図的に省かれ、実際は作品の舞台がどこなのか特定できないようになっている。読者としては時代背景、舞台を想像で補うしかないのだ。しかし作者はこの手法によって生々しくなりがちなこの時代のストーリーをどこかファンタジックで、虚構的に現すことに成功している。そのため作品は悲劇を示唆する段階にとどまっている。読者は現実で起った戦争という事実に向き合わなくてすむというわけだ。
また作品は数ページ一セクションのまとまりで構成されている。このため大変読みやすい。各セクションでかなりシリアス、残酷な話題があったとしても、その話が深く掘り下げられることはなく、すぐに次の話に進むことができる。たとえば作品の終盤「お母さん」の話は、かなり重たい。おばあちゃんのもとに双子を預けた母親が子どもたちと再会するが、彼女は進駐軍の将校との間に私生児を設けている。母親は双子を迎えに来たのだが、子どもたちはおばあちゃんの家から離れようとせず、おばあちゃんもまた子供たちを母親に渡そうとしない。言い合いをしているうちに庭に砲弾が撃ち込まれ、母親は凄まじい姿で絶命する。しかしこの話は母親の死の直後終了し、子供たちが悲しんでいる描写は一切ないまま、「ぼくらの従妹の出発」という次の話が始まる。これはユダヤ人と思われる双子と同居していた少女がホロコーストから逃れ、(一応この場としては)幸せな出発をするというエピソードである。このなかで双子の母親の死については一切触れられていない。次に来る「新しい進駐軍の到着」でもそうである。センチメンタルになりがちなエピソードをぶつ切りにしていく、この書き方によって、読者に強制的な気分転換をさせてくれるのだ。
双子の行動原理が『悪童日記』の爽快さを生み出す
そして、おそらくもっとも『悪童日記』を独特なものにしているのが、双子を貫く行動原理だろう。双子は年齢を考えればかなり大人びており、その冷静な観察力、行動力は並外れている。ル・モンド紙の書評に「人間ばなれしていて、ほとんど怪物的」と書かれているのもうなずける。二人はタイトル通りの『悪童』であり、盗みも殺しも平気でこなしてしまう。しかし、彼らには彼らなりの倫理観がある。それもかなり人間的な。
例えばこんなエピソードがある。ユダヤ人と思われる少女がおばあちゃんの家に到着したとき、おばあちゃんは少女を預かる報酬として手に入れた宝石を独り占めするため、この少女の毒殺を企てる。しかしこの計画を盗み聞いていた双子はおばあちゃんに毒殺の計画を自分たちが知っていることをつげ、殺人を妨害する。少女は双子にとってつい最近知り合ったばかりの他人であるにもかかわらず、双子は彼女を守ろうとする。
さらに印象的なエピソードは司祭館の女中についての事件である。女中は双子のことが気に入っており、いつも体を洗ってくれるなど何かと親切にしてくれていた。裏には双子の容姿が美しいため性的処理の道具に使っていたいう事情があるのだが、同居の将校と倒錯的関係になっていた双子にとってはそれはどうでもいいことだろう。とにかく女中は双子にとっては利害が一致する相手だったはずだ。ところが、女中は収容所にひかれていくユダヤ人にパンを与えるふりをして、自分がパンを食べてしまうという質の悪い「悪戯」をする。双子はこれに大変ショックを受けたようだ。二人は女中が扱う薪に爆薬を仕込み、彼女の顔を焼く。彼らは見ず知らずのユダヤ人のために懇意な女中に報復したのである。
双子の行動は戦争中の大人が染まっている狂信狂的な善悪(例えばある種の民族は敵であるから殺してもよい)をあざ笑っているようである。二人の倫理観は、困っている人に不親切な人間は悪、弱いものから搾取する人間は悪というような、シンプルにして人間的なものであることが読み取れる。そしてこの倫理を押し通すためには彼らは手段を択ばない。戦争中、最も弱い立場であるはずの子供がこれら人間なら誰しも共感できる倫理観をもって、安寧の立場にいる差別者、大人に対し報復をするというストーリーの流れ。これこそこの『悪童日記』の読み味を爽快にしている最たる要素だろう。
父親はなぜ利用され、殺されたのか
すると、なぜ最後に二人の父親は双子に殺されたのかという疑問が出てくる。双子は国境を超えるため、再開した父親を利用する。地雷除けのための道具にするのだ。父親は特に双子に対し、なにか害を与えたわけでもなければ、弱いものを理不尽に痛めつけたわけでもない。彼はほとんど登場しないし、何もしていない。
そう、もし父親が双子の倫理観に触れて死んだとするなら、それは「なにもしなかった」罪なのではないだろうか。戦争中、政治犯として収容されていた彼は双子と母親をほったらかしにしている。拷問の跡が生々しい彼にしてみれば仕方のなかったことかもしれないが、いきなり表れて「助けてほしい」と懇願する父親に、双子はこう切り返す。「何年もの間、近況を知らせてくれませんでしたね。」
父親がしたことといえば、埋めた母親の墓を掘り返したこと、おばあちゃんを罵ったことぐらいだろうか。どちらも双子にとっては(そして読者にとっても)印象の悪い行動だといえる。
おばあちゃんと双子の間に奇妙な愛情が生まれてくる過程は見逃せないだろう。卒中で倒れたおばあちゃんを介護する二人は「弱いものを助ける」という行動原理に沿っていたのかもしれない。しかし次に倒れたら殺してほしいというおばあちゃんの依頼に頷かないのはやはり二人の中におばあちゃんに対する愛情が芽生えていたからだと考えたい。またあれだけ業突く張りだったおばあちゃんが死を覚悟したとき、財産を孫たちに託すところもなかなかの名シーンだ。
そのおばあちゃんが死んだあと、対極的な立場としてあらわれたのが父親である。おばあちゃんに対する態度とくらべ、双子の父親に対するそれは非常に冷たい。おばあちゃんが残してくれた食料をたらふくたべ、子供たちに頼りっぱなしの父親。政治犯である彼は双子にとって一緒にいては危険な人物である。
ユダヤ人と政治犯、どちらも弱い立場の存在には違いないが、この時の双子にとって父親は守るべき弱いものとは映っていないのが皮肉である。もしかするとここで現れたのが病人や子供だったなら、双子は彼を利用しなかったかもしれない。しかし登場したのが本来は自分たちを庇護する立場の父親であったところが彼の運命を決定した。この小説の醍醐味は弱い立場にある子供が自分より強い存在であるはずの大人に報復していくというところにあるのだから。
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