『HAPPY!』は著者自身による『YAWARA!』へのアンチテーゼ
『HAPPY!』の登場人物は『YAWARA!』キャラクターを模している
日本国民に女子柔道ブームを巻き起こした浦沢直樹の傑作といえば『YAWARA!』である。主人公、猪熊柔(いのくまやわら)は、柔道一家に生まれた天才柔道少女。しかし柔は柔道が家族をバラバラにさせてしまったのだと考え、有り余る柔道の才能を持ちながら普通の女の子として生きていきたいと望んでいる。にもかかわらず、彼女の周りにはその柔道の強さに惹かれた人々が集まり始め、いつのまにか柔自身も柔道と真剣に向き合うようになる…というストーリー。
普通のかわいい女の子が一本背負いで自分の倍もある選手をばしばし投げ飛ばす!この爽快なストーリーの中で、柔はいつも大歓声に包まれている。本人が望んでいるかはさておいて…。
そして『YAWARA!』連載終了後、はじまったもう一つの浦沢スポーツ物。それが『HAPPY!』だった。
『HAPPY!』完全版の最終巻で浦沢直樹自身が語っているが、『YAWARA!』の後に彼はミステリー物を書きたかったということである(こらがのちの『MONSTER』なのだが)。ところが編集者はもういちどスポーツ物を描かせたがった。『YAWARA!』があれだけのヒットを飛ばしたのだからこれは当然だろう。そこで浦沢が描いたのがテニス漫画『HAPPY!』である。
一目見ればわかるのだが、『HAPPY!』の登場人物は『YAWARA!』と設定やキャラクターデザインが瓜二つなのである。
まずは主人公の海野幸(うみのみゆき)、完全に猪熊柔と同じ顔。そして最初は海野家の借金取りとして現れ、後に幸に惚れてしまう桜田。『YAWARA!』では柔を追い回す新聞記者として登場し、最後には柔と結ばれる松田とほぼ同じデザイン、名前さえ(多分意図的に)似ている。幸を恋愛面・テニス面で追い落とそうとするいやらしいお嬢様、蝶子は『YAWARA!』のさやか譲(+松田を巡っての恋のライバル加賀邦子)と対になっているし、柔の最初の恋のお相手、風祭と同じ立場のお坊ちゃんもでてくる。幸のテニスの先輩鳳(おおとり)である。
まるで『YAWARA!』の焼き直しに見えるようなメンバーの数々。ところがこれらの人物、中身はむしろ『YAWARA!』の進化版とさえいえるほどしっかりしたキャラクターに仕上がっている。そこには大衆に受け入れられすぎてしまった『YAWARA!』に対する浦沢の反骨精神さえ見えるように感じられる。
柔は歓声の中で、幸はブーイングの中で試合する
「『YAWARA!』でさんざん描いた「ワーッ」という歓声はもう描きたくない。そうだ「ブーッ」でいこう。」
『HAPPY!』完全版のあとがきでの浦沢直樹の言葉である。
この言葉通り、『HAPPY!』のヒロイン、幸はライバル達の陰謀によって「ダーティな手段を使う卑怯者」というレッテルを張られ、試合で勝つといつもブーイングを浴びるという設定。彼女は借金返済のためにテニスをやっているがそれだけではない。彼女はテニスが好きなのだ。貧乏でラケットを買うお金も乏しく、テニスウェアは一張羅。テニスの名門校でお金持ちの同級生たちから笑われても、ライバルたちからどんなにいじめられても決してあきらめないほどテニスが好きなのだ。
『HAPPY!』はけして読んでいてスカッとする話ではない。最終回付近でバタバタと展開がたたまれていき、性格最悪のライバルたちがどんどんいい人にかわっていくのもご都合主義っぽく感じられることもある。そもそもテニスという題材は使い古されているし、斬新さや読み心地の良さでは『YAWARA!』には適わない。
それでもヒロインでいえば、幸の魅力は輝いている。柔は天才であるが、柔道を最初から大切にしていたわけではない。ある意味では家族、ライバル、そして好きな人である松田に流されてオリンピックで優勝するのである。
それに対し、幸は周りがどんなに反対してもテニスを捨てなかった。幸は必ずしもテニスの申し子ではない。ぼろ負けすることもある。それでもテニスが好きなのだ。
私生活も対照的である。柔の悩みが主に恋愛方面にしか広がらないのに対し、幸の悩みは借金、貧困、幼い兄弟、いじめと様々だ。普通の人は歓声の中で生きるより、ブーイングの中で頑張らないといけない場面の方が多いだろう。幸はそんな普通の人を励ましてくれる。決して明るくはない現代日本では幸に共感できる人は多いのではないだろうか。
ダメ男で終わった風祭、進化できた鳳
『HAPPY!』には『YAWARA!』を読んだ読者だからこそ、ミスリードされてしまった、という展開が多い。これには浦沢直樹の意図がちゃんと働いているにちがいない。
例えば桜田。容姿、立場が松田と瓜二つな彼は、借金取りという立場上幸を追い回していたころから読者に「こいつが最終的に幸と結ばれるんだろうな」と思われていたはず。実際桜田は幸と夫婦漫才のような喧嘩をするようになり、やがてその懸命な姿にほれこんでゆく。ヤクザの上司を敵に回し、命を懸けて幸を守ろうとする姿はカッコいい。しかし、最終回で読者は肩透かしを食らっただろう。桜田は終盤に助けた出稼ぎのフィリピン女性(子持ち)と家庭を持ったことになっているのだ!柔の心は風祭から松田に移ったが、幸の心は鳳先輩から動かなかったのである。
『HAPPY!』と『YAWARA!』の重要な分岐点はこの風祭と鳳にある。ともにお坊ちゃんで、主人公ともう一人のお嬢様の間で心揺れる二人。しかし風祭は序盤から終盤まで、ただの優柔不断な男に終始した。最終的にはさやか譲となし崩し的に結婚するが、あの性格ではそのうちさやかからもみはなされてしまうかもしれない。
ところが鳳は違う。かなりのマザコンっぷり、情けない姿を描かれ、風祭以上の醜態を見せている鳳だが、幸の逆境に立ち向かう姿に励まされた彼は自ら底辺の生活に身を投じ、幸を支えようとする。最後には自身のテニスプレイヤーとしての限界を破り、プロとして復帰する。鳳はテニスはうまいが、作中で何度も他の人間に「君はテニスプレイヤーとしてプロにはなれない」と言われる。自身の絶対基準であった母親にも。それでも鳳はプロに復帰する。他人に反対されても自らの道を信じる姿は、ヒロイン幸と同じである。進化した鳳はそういう意味でもう一人の主人公である。
『MONSTER』、『20世紀少年』への軌跡
『HAPPY!』の後、浦沢直樹は『MONSTER』や『20世紀少年』といったミステリー、冒険漫画を執筆した。この2作品には『HAPPY!』と共通するものがいくつも出てくる。暗い社会背景や、裏社会。人の弱みや醜さ。
そのなかでも特に注目したいのが世間から追われながら、信じる者に向かってつきすすむ主人公たちである。『MONSTER』の主人公天馬は自身が貫いた人命救助の信念のために、殺人者の汚名を着せられ逃亡する。理解者はほとんど得られず、孤独な闘いを強いられる。『20世紀少年』の主人公ケンヂも「血の大みそか」の首謀者に仕立て上げられ、テロリストとして世間からは隠れて生きなければならない。どちらも「ブーイング」の中にいる主人公だ。
浦沢直樹の他の作品『パイナップルARMY』や『MASTERキートン』(脚本は浦沢でないとしても)をみても著者はこういう名声に背を向けた迎合しないタイプの主人公の方が描きたいのだろうなと予測できる。
世間的な喝采を浴びる主人公は本来なら例外なのかもしれない。それでも『YAWARA!』は面白いし、評判をとった。『HAPPY!』はそんな『YAWARA!』ファンに対し、浦沢が提示したアンチテーゼのように感じられる。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)