90年の人生30回分前の物語 - 二千七百の夏と冬の感想

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二千七百の夏と冬

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90年の人生30回分前の物語

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
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演出
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目次

冒頭からの秀逸なストーリー展開

ダム建設予定地から見つかった縄文時代の人間の骨。それを見つめる新聞記者香耶と教授の松野。2人がその骨について語り、当時に思いを馳せながら場面はこの骨の持ち主が生きていた縄文時代に移る。この展開がまるで映画を観ているような気持ちにさせられる。マンガで言うとコマ割りというのか、小説のそれにあたる言葉を私は知らないのだけど、そういうのが荻原浩は抜群にうまいと思う。マンガではコマ割りに違和感があるとスムーズに読み進めることができないけど、小説にもそういうものがある。それがしっくりこないとどうしても物語に没頭できないのだけど、荻原浩の作品でそのように感じたことはない。この小説は現代と縄文時代と交互に話が進んでいくのだけど、その展開にはまるで無理がない。そのような始まり方なので、これから進む物語にどんどん期待が膨らんでいった。

縄文時代の人々の暮らし

主人公はこの骨の持ち主ウルク。ウルクの村ピナイの生活やその文化などが緻密に表現されている。特徴的なのがその言葉だろう。荻原浩の言葉選びのセンスの面白さは個人的に好みなので(他にも架空の言葉がたくさん出てくる物語は多い。「オイアウエ漂流記」など大好きな物語のひとつだ)、ここで出てくる言葉にもかなり興味をもった。現代の言葉に似ているものも多いし、全く違うものもある。例えば犬はヌーだし、シカはカァー、うさぎはミミナガなどたくさんそういう言葉がでてくる。そのほとんどは架空なのだろうけど、もしかしたら古代人の発していた言語をベースにしているのかもと思うくらいのリアリティがある。このリアリティが荻原浩の言葉選びのセンスの良さだと思う。
彼らが海辺の人たちと交易して自分たちの山では採ることのできない魚や貝などを物々交換で手に入れたり、思い思いに取引が済むと皆で祭りになり違う文化の人々との会話を楽しむというシーンがある。そこは縄文時代というともっとサルに近いような生き方をしていると思い込んでいたけど、実際はそうではなく祭りやお酒、そしてきっとおしゃれさえも楽しんでいた。食べ物もちゃんと調理してありとてもおいしそうで、その生活はなんだかのどかで羨ましくさえ感じた。
そうはいっても決して豊かではない毎日で食べ物に事欠くときさえあるのに、ウルクをはじめ周りの人間たちは諍いを起こしながらも生き生きと暮らしている。その描写はまるで映画を観ているようでもあった。

村を追放されたことによって世界を知る

そのようにのんびり育ったウルクは北の森に迷い込み、ヒグマ(彼らの言葉ではクムゥ)に襲われ、その上ヒグマにあさられた自分の矢筒を取り返したことによって執拗な追跡にあう。そのまま村に帰ってきたものだから村人が襲われてしまい、そのため村を追放されてしまう。村の外に出ることは掟で禁じられていたウルクにとっては、それはどれほどに心細かっただろうか想像に難くない。彼が村との境界線である川を渡る場面がある。誰かが追いかけてこないか、許されたぞという声は聞こえないかと、川を渡る用意を必要以上にゆっくりするところなどは本来ならちょっと笑ってもいいところなのかもしれないけど、私は彼の心細さについ感情移入してしまい、切ない思いになった。
とても印象深い場面がある。どんどん森の奥に進み、彼の育ったピナイを遠く離れ、そして切り立った岸壁に出くわす。それを死ぬ思いで登りきり、頂上について周りを見晴らしたときに今まで見たことのない山々が峰を並べている。ピナイにいた時に見ていた山以上のものはないと思っていたのに、今回りを見回すと桁違いの堂々とした峰々に圧倒される。ここで初めてウルクは世界の広さを知ったのだと思う。よく似た場面がマンガ「バカボンド」にもあった。武蔵も切り立った壁に行く手をふさがれ、むきになって必死で登った頂上にはそれ以上の山々が峰を連ね、自分の小ささを知るシーンだった。マンガだった分、その山の堂々さ加減が視覚に直接作用し、鳥肌がたった。だけど、このウルクが見た山々の描写も負けていない。彼がどれほどの衝撃を受けたのか、それまではなにかと幼さの残るウルクだったけど、これを境になにか男らしさのようなものが芽生え、一段階成長しているように思う。この物語で好きな場面の一つだ。
ここから少し成長したウルクだからこそ、あの因縁のクムゥを倒すことができたのかもしれない。あの格闘の描写も壮絶で、その緻密な描写のせいで(おかげで?)頭の中に映像がどんどん流れ込んでくる。石をぶつけた後一瞬見失い、ふっと振り向いたら後ろにいた時など声が出そうになった。ヒグマは一時、三毛別羆事件とか福岡大学ワンゲル部のヒグマ事故とか色々読み込んだことがあったので、その恐怖は容易に想像できる。あのあたりは本当に手に汗を握った。

弥生人との出会い、違う文化との出会い

よく考えてみれば、縄文時代と弥生時代が年度替りのようにすっぱり分かれるはずもない。縄文時代の末期と弥生時代の後期には縄文人と弥生人が入り乱れて生活していた時期もあっただろう(生活の場所は違っても)。そんな当たり前のことを、私はあくまで年表でしか彼らの時代を知らなかったから、気付かなかった。他にもウルクとカヒィのような縄文人と弥生人のカップルもいたのかもしれない。今で言う国際結婚のような感じかもしれないが、ありえないことではない。そういう当たり前のことをこの小説は気付かせてくれる。でもその文化の違いによってもたらさせる諍いや差別などは、現代にも通じる。ウルクとカヒィの間であった犬を食べるか食べないかという話は現代でもよくある話だ。現代に生きる香耶もまた恋人が韓国人という違う文化の国で、そうと知った時に自身にあると思わなかった微妙な心を感じている。差別の根深さやその説明しきることのできない感情などはまたちょっと別の話なのかもしれないが、現代過去ともに文化の違うカップルであるという設定はなかなか奥の深いものだと思う。ただ、香耶の恋人は死んでしまっているという設定は必要なのかどうかはわからなかった。

情熱的な2人と衝撃的なその最期

ウルクとカヒィは恋に落ち、二人で隠れながらも逢瀬を重ねる。このあたりの描写は2人がお互いを本当に想いあっているというのが痛いほど感じられて、こちらを甘く切なくさせる。子供が出来たことを知り、そして二人で村を出ることを決めるあたりから、物語の展開は加速していく。ここで村のものに追われながら二人は必死で逃げるのだけど、その悲壮さよりもなぜか美しさを感じる描写が多い。川の音や様々な花の色、山を上り下りするカヒィの身軽さやその衣の色。執拗な追っ手から必死に逃げているのだけど、それらの色彩の美しさのせいでつい彼らの行く先に希望を感じてしまった。
傷を負い、とても暮らせないような場所に逃げ込み、それでも自分たちの幸せな未来を夢見つつ、突然襲った地震による土砂崩れに飲み込まれてしまった二人はその瞬間何を考えたんだろう。思いがけないその終わり方に、涙がでてしまった。
「人生90年としてそれを30回繰り返せば2700年前になる。」という心に残る文章がある。縄文時代と言えば想像もできないくらい昔のように感じるけど、たった人生30回分だけの昔というのはとても単純なのだけど印象的だった。私が思う以上にウルクもカヒィも今の人たちと変わらないのかもしれない。そういうイメージを覆されたということもあるし、その上本を読んで泣くということは久しくなかったので、私にとってこの本は2016年に読んだ中で最高の作品となっている。

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