一執事の視点から見る大英帝国の黄昏
大英帝国の黄昏
カズオ・イシグロの長編小説『日の名残り』は、イングランド南部を舞台に、第2次世界大戦後からスエズ動乱までの期間を、貴族の屋敷に執事として務める主人公スティーブンスの語りで描いた物語である。すなわち100年以上世界一に君臨したイギリスが、その座をアメリカとソ連という新たな超大国に明け渡した時期、大英帝国の黄昏時を、帝国の象徴たる貴族に仕えた執事の視点で描いた、大英帝国の衰亡史とも言える内容である。故にこの小説を本当の意味で楽しむには、イギリスの歴史の知識が必要であろう。
イギリスは、18世紀末から19世紀の産業革命期を経て、多くの海外植民地を獲得し、ヴィクトリア女王の治世(1837〜1901年)において、政治・経済共に世界一の国として繁栄した。帝国の威光を国民は享受し、貴族、中産、労働者の3大階級が生まれるなど、現代にもつながるイギリスの根幹が出来上がった。
しかしながら2つの大戦を経て、帝国の威光は陰りが見えてきた。世界の工場と呼ばれた産業は衰え、政治においても影響力がなくなりつつあった。代わりに台頭してきたのが、アメリカである。『日の名残り』においても、アメリカの力は明らかで、スティーブンスの主人もイギリス人紳士ダーリントン卿から、アメリカ人資産家のファラディへと変わっている。
屋敷は半分ほどが閉鎖され、使用人の数も激減。往年の輝きも色褪せつつあった。執事スティーブンスも老境を迎え、人生の黄昏時に差し掛かりつつある。大英帝国の衰亡と執事スティーブンスの衰えが重なり合う趣向である。そんな時、過去に屋敷の女中頭を務めていたミス・ケントンから屋敷を懐かしむような手紙が来る。スティーブンスはミス・ケントンを訪ねる旅に出発するのである。
『日の名残り』は、大英帝国に青春を捧げた執事の男が、過ぎ去った青春を振り返り、現実に向き合うまでの物語と言える。そのプロットがイギリスの50年代とぴったりと重なるところにこの小説の面白さがある。
スティーブンスの旅の出発は、1957年7月。3ヶ月後にはエジプトにおいてスエズ戦争(第2次中東戦争)が勃発し、英仏イスラエル軍が敗れる結果に終わる。イギリス人にとって、スエズ戦争の敗北は決定的な出来事であり、今まで植民地として下に見ていたエジプトに敗北した事実は、大英帝国の完全なる終焉を実感させられる出来事だった。『日の名残り』はそのスエズ戦争の前日譚なのである。
スティーブンスの回想
ミス・ケントンを訪ねる旅の途中、スティーブンスは過去を回想する。往年の屋敷の姿を思い出すことで、自分の人生を振り返るのである。故に過去の描写には、スティーブンスの主観が入っており、それが真実であるのか、スティーブンスの脚色が入っているのかは怪しいところである。スティーブンスの語りの中に散りばめられる感情の描写やその揺れ動きが面白いので見ていきたい。
スティーブンスの過去の主人はダーリントン卿といって、国際政治にも発言力があったアマチュア政治家の紳士である。大英帝国の時代は、まだ普通選挙や民主主義といった概念は薄く、旧来の貴族が政治を支配し、資本主義によって台頭した資産家や中産階級が労働者階級を支配するという構図だった。ダーリントン卿はそんな往年のイギリス政治の象徴として描かれている。
スティーブンスはダーリントン卿に絶対の忠誠を示している。イギリス人のアイデンティティとして“品格”を挙げるスティーブンスは、その意味を、どんなことがあっても自分の感情を優先せず、忠誠心を失わないこととしているのだ。
しかし1920年代は名誉ある紳士として評判だったダーリントン卿も、30年代に入るにと、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。ヒトラー率いるナチス・ドイツに近づき、イギリスにおける対独宥和政策(イギリスがナチスドイツに対して領土拡大や軍備増強などを認めて宥和を図ったが、結果的に第2次大戦引き起こすほどナチスを強大化させてしまった)の推進者となり、反ユダヤ主義に傾倒するからである。
スティーブンスはこれに対しても、ダーリントン卿を支持する。偉大なダーリントン卿の影を引きずるあまり、自分で判断ができない、あるいは自己欺瞞によってダーリントン卿が正しいと信じ込む状態にスティーブンスは陥る。
例えば、屋敷に雇われていたユダヤ人の女中を解雇すると指示された際、スティーブンスは心の中では戸惑うが、結局主人を信じて実行してしまうのである。スティーブンスの判断は、対独宥和政策を支持したあるいは容認してしまった当時のイギリスを表していると言ってもいいだろう。
後年、ダーリントン卿はナチスやファシズムの擁護者として評判を落とし、失意の中で死去する。スティーブンスはその悪評に心を痛めるが、自分の罪だとは思っていない。ダーリントン卿に仕えた自分は、職業的領分を全うしたのであり、知識や力の及ばない政治的事柄には関係がないというのが、スティーブンスの言い分である。
果たしてそうだろうか。ダーリントン卿の判断を疑う余地がどこかにあったのではないだろうか。もし政治に知識や力が及ばなかったとして、国民は歴史的責任を追う必要はないのだろうか。そうした疑問をスティーブンスの自己弁護に読み取ることができる。
誰だって自分が捧げた青春を否定したくはないものである。例えそれが後世において悪評を向けられるものであったとしても。
ミス・ケントンとの再会
『日の名残り』は政治的な側面の他に、スティーブンスの個人的側面すなわちミス・ケントンとのラブストーリーも語られる。
ミス・ケントンは往年の屋敷に仕えた女中頭で、負けん気が強く自分の意見をはっきりと表明する女性として描かれている。事ある毎にスティーブンスに噛みつき、対立するが、お互いに能力を認めあっており、尊敬する間柄でもある。
執事という職業に常在し感情を見せないスティーブンスと、感情を表に出して個人的な幸せを求めるミス・ケントン。同じ使用人、労働者階級でも二人の働き方は対照的だ。故にミス・ケントンのスティーブンスへの好意は跳ね除けられてしまう。
スティーブンスは、ミス・ケントンが嫌いなわけではない。むしろ好意を寄せているといっても良い。その証拠にスティーブンスはプライベートな時間において、“おセンチ”な恋愛小説を好んで読んでいる。屋敷内の恋愛沙汰を嫌い、個人的な感情をひた隠しにするスティーブンスが、実はロマンチックな恋愛や言葉を求めていたのが、何とも可笑しい。
結局最後まで、スティーブンスはミス・ケントンに応えることはなく、彼女は他の男と結婚して屋敷を辞めてしまう。スティーブンスのように、自分の感情を表に出さず、無口で冷たく見える性向は、イギリス人男性の特徴だとよく言われている。
時は流れ、スティーブンスは旅の終着点に到着、ミセス・ベンとなったミス・ケントンに再会する。彼女は結婚当初、決して幸せではなかった。今でも時々自分の人生が間違っていたのではないかと考え、家出をしてしまう。スティーブンスと一緒になる人生を考えてしまうのだ。スティーブンスへの手紙に記した郷愁の念は、屋敷での日々と共に、未だ彼女に残るスティーブンスへの気持ちであったのだ。
しかし彼女には子供がおり、じきに孫も生まれることになっている。夫は隠退生活が決まり、傍から見れば上々の人生だ。彼女はそのことに気づき、郷愁の念を押しとどめる。現実を受け入れ、手にしたものに喜びを見出す。そんな静かな強さをミス・ケントンは身につけたのだ。
スティーブンスとの別れのシーンはクライマックスだが、非常に地味である。スティーブンスはミセス・ベンの隠退後の幸せを祈り、彼女は涙を浮かべながら感謝の言葉を返す。もう戻らない青春と決別する、大人の静かな別れのシーンである。ここでも在りし日の屋敷の日々、すなわち大英帝国の繁栄との別れが意識されている。
彼らは大英帝国の威光に青春をささげ、その衰亡を見届けた世代のイギリス人労働者である。例え、経済や政治力が衰え、大国の座がアメリカに移っても、過去の栄光に固執するのではなく、新たな一歩を踏み出さねばならない。人生はまだまだ続くのである。新たなイギリスの姿と、一労働者の姿を重ね合わせた、巧みな小説と言えるだろう。
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