妙に後を引く不思議な小説
異色の伊坂幸太郎作品
「あるキング」の作者である伊坂幸太郎の代表作として名が挙がるものいえば、映画化もされた「グラスホッパー」やその続編の「マリアビートル」、「陽気なギャング」シリーズなどだろう。彼の作品は殺し屋やギャングなど特殊な職業についている登場人物たちの冒険譚が臨場感たっぷりに描かれ、いつの間にか読者を非日常へ攫っていく、という形態が多い。
今回も無意識にそのような、端的にいえばハラハラドキドキのアクションとそれを支える複雑な人間ドラマを期待して読んだわけだが、正直読み終わった直後の気持ちは「拍子抜け」というのが一番近い。
主人公の王求は天才野球少年であり、教育熱心な両親に育てられ、最強の野球選手になるも天才ゆえの孤独から逃げられず、最後は死んでしまう。
この一冊をまとめるとこんな感じで片付けられてしまうのだが、このストーリーが伊坂らしからぬ淡々とした感情を押し殺したような文章で綴られ、実にあっさりと物語の幕が閉じる。
「面白かったか?」と問われれば、私は決して自信を持ってうなずくことは出来ないだろう。むしろ、読み終わった直後に感想を聞かれたら、伊坂作品の中で一番面白くなかったと答えたかもしれない。しかし、それなのに、この本の存在感は読後何日経ってもなぜか薄れることがなかった。そしておもむろにもう一度この本を取り出して、考察に乗り出してしまったのである。
あるキングとマクベス
たいていの人がお気づきだが、「あるキング」はシェイクスピアの「マクベス」に大きく関連している。「マクベス」をまだ読んだことがない人は是非一読してほしい。作品中で何度も登場する魔女は、2つの作品の共通点の代表的な例であろう。「マクベス」のあらすじをまとめれば、主人公マクベスが魔女から自分がスコットランドの王になるという予言を与えられ、それをきっかけとして前王をその手で殺害して予言通り王になり、しかしその王座を誰かに脅かされることを恐れて次々と殺人を犯し、最後は夫妻共々死んでしまうというストーリーである。この魔女は「マクベス」においては実在する登場人物だが、「あるキング」では実際に存在する人物ではなく、概念的な存在だ。イメージとしては、よく人が何かに対して葛藤している時の心情の例えとして使用される天使と悪魔に近いかもしれない。あれは人間が心の中にある相反する想いを抱いた時、それぞれの側面を切り取って具現化し、あたかも天使と悪魔が人を誘惑しているような描写をすることで心の揺れ動きを表現するわけである。この3人の魔女というのも元々は登場人物の心の側面をわかりやすいように具現化したものであり、「あるキング」では王求を最強の野球選手にしたいという欲求や、強い殺意を表しているのだ。そしてここで面白いのは、具現化した結果が魔女というところである。マクベスを意識しているからと言ってしまってはそこで終わってしまうが、こうもとれないだろうか。魔女というのは天使と悪魔のように善悪がはっきりしていない。色々な物語を見てみても、人々の平和を脅かす悪者として魔女が描かれているものもあれば、逆に人々から慕われる存在として魔女が描かれているものもある。強い心の揺れを引き起こす魔女が味方なのか敵なのか。彼女たちのささやきに従った場合、結果的に吉と出るか凶と出るかは誰にもわからない。このことから、3人の魔女は登場人物の心の具現化した存在であるとともに、彼らを翻弄する「運命」をも同時に具現化したものであると。
さて、3人の魔女は王求の人生の岐路で毎回のごとく現れ、時には両親に殺人すらそそのかし、王求と、彼の周りの人々の人生を翻弄していった。伊坂がこのマクベスと王求を重ねていることは間違いないが、しかしこの二人を並べてみるとなんだか言いようのない違和感を覚える。どうにも重なり切らない。それはなぜだろうか。
透明な王求と運命
その答えは、言い方がこれでいいのかわからないが、王求とマクベスの間の圧倒的な温度差だと思われる。小説を見返してみても、王求の感情を示す言葉や、彼の想いを伝えてくる描写というものは圧倒的に少ない。作品の主人公であり、野球の天才…しかも並大抵の天才ではなく、打率8割という人間離れした天才という設定があり、まぎれもない「キング」でありながら、あまりにも彼自身に色が無いのである。彼の意思で起こした行動というものが少ないのだ。マクベスは自ら前王を殺し、王の座についた後も身を切り裂くほどのその座を奪われないかという恐怖に苦悶する。彼が一番に感情的になり狂ったように苦しみ、それに周囲の人間が巻き込まれていく。運命に振り回され、それに抵抗しようと彼自身が苦しむわけだ。しかし王求はどうだろうか。圧倒的な才能を与えられた彼に対して、嫉妬し、期待し、暴走し、振り回されるのはいつも周りの人間である。彼自身はまるで台風の目であるかのように言われるまま淡々と野球に打ち込むだけで、孤立していく状況に抵抗するでもなく、何か複雑な感情を抱く描写もない。そこがマクベスと王求の大きな違いだろう。
思うに伊坂は、そんな透明な王求の姿を私たちに見せたかったのではないか。人間離れした唯一無二の才能を持ちながら運命に身を任せ、なんの色も持たず死んでゆく男の姿を見せたかったのではないか。運命に流されるままに生きれば、孤立し、破滅を迎えるかもしれない。しかし運命に抗って生きるのは私たち自身の経験から至難の技でのあることも分かる。その上で私たちはどう生きていくのかという問いを投げかけているように私には思える。
物語のラストで誕生する赤ん坊に、私は初めバッドエンドを見出した。またこの子も運命に振り回された人生を送り、永遠とそれが繰り返されるのだと。しかし実のところこの赤ん坊は他ならぬ読者自身であり、これからをどう生きるかは自分の手に委ねられているというメッセージなのかもしれない。
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