リアルと言葉の粉飾性
オリエンタリズム
この映画は、欧米からみた異文化に対しての憧れや好奇心が強く表れています。美術や文学の領域ではその東洋趣味をオリエンタリズムと呼び、西欧の上流階級のたしなみのようになっており、この映画でも、日本人が好奇な的として出てきます。後半のほうに酔い狂ってカラオケを歌うアメリカ人も出てきますが、作品の中で多く登場するのは「日本人の変なところあるある」です。日本の文化に誇りを持ち、盲目的にその価値を信奉している人にとっては、いささか感じの悪い映画であったでしょう。ソフィア・コッポラは、この作品でアカデミー脚本賞を受賞していますが、やはり「アカデミー賞」が欧米中心的な賞レースであると確信させる一幕でした。
二人の関係性
とはいえ、さすがと言えるのは、アジア対欧米で終わらないところです。むしろ、それは二人の環境を整える、あるいは二人を社会から孤立させるための演出に過ぎなかったのです。そして、その演出はソフィア・コッポラが若い時に日本に住んでいたからこそ可能でした。渋谷や新宿のバーやクラブを覗いてみると分かると思いますが、日本に住んでいる外国人は社会から孤立させられ、彼らだけの彼らの時間を強いられる存在になっているのです。また、そこに住む欧米人は、「日本人ではない」という一点で、徒党を組めるほどの存在になっているのです。言語の問題はもちろん大きいのですが、外国の人にとっては規範が全くなくなるような国が日本であるようです。
ベッドシーン
この映画の特徴は、ボブとシャーロットがなかなか身体を触れ合わない点ではないでしょうか。また何もしないのかと思うようなシーンが何度も続いて、それでも彼らは何もしませんでした。かと思うと、ボブはバーで歌っていた歌手とすぐに行為に及んでしまうのでした。ベッドシーンの切り口から見るだけでも、彼ら二人の関係性が何か特別なものであると推察できます。シャーロットを演じるスカーレット・ヨハンソンの容姿や下着姿になっているシーンを見て性的な欲求が抑えられなくなった人にとっては、つらい映画であったでしょう。
家族と夫
ボブには妻と子どもが、そしてシャーロットには夫がいる設定でした。彼らが行為に及ばなかった理由は、日本という無規範的な空間とは別に彼らが最後は規範に戻らなければならないと知っていたからです。つまりそこにあるのは、哲学的な恋と相対する言葉では紛らわせないようなリアルなのです。しかしながら、リアルに近づくにつれて高まっていくのが恋であり、言葉の粉飾性なのです。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)