考え方次第で人は幸せになれる
他人に死ねばいいのにと言える無責任さ
"死ねばいいのに"という言葉をどのニュアンスで受け止めるか。ハタチ前後の若かりし頃であれば、すんなりと理解できたのかもしれないが、近しい人の死を経験し、死というものが以前よりも身近になった今、ケンヤの口から出る"死ねばいいのに"という言葉に重みを感じ、まるで死刑執行人からの言葉のように受け止めていた。それは間違いだった。彼の言う"死ねばいいのに"は、もっとずっと軽かったのだ。学生のころは確かに笑いながら、死ね!だの、死ねばいい!だのと言っていた。ケンヤにとっても、そもそもはそんな軽い言葉でしかなかった。ケンヤがアサミの関係者を訪ね歩いて、不満だらけの彼らへ発した"死ねばいいのに"には、アサミ殺害後であるから、ある程度の重みはあったと思われるし、この言葉で彼らがどう反応するのかを見るために発したわけだから、やはり軽くはないのだけれど、責任もなく、子どもだったころの軽薄さを忘れずに受け止めるべきであったと思う。ケンヤはアサミに"死ねばいいのに"と言ったとき、何も深く考えてはいなかったのだから。
さとり世代の象徴
ケンヤが訪ね歩いたアサミに関わる人物たちは皆、自分は正当に評価されていない、自分は精一杯頑張っているのに環境や周りが悪いせいで人生がうまくいかないと言う。だが死にたくはない、と。彼らが幸せではないのは自分自身のせいであるということを、ケンヤは"死ねばいいのに"という言葉をもって気付かせる。だが、ケンヤ自身は積極的な感情を持っていない人物だ。欲がないといえば聞こえはいいが、さとり世代の象徴として描かれたのだろう。大きな喜びも必要とせず、苦労も避けられるだけ避け、責任ある立場にもなりたくない。だからケンヤにはアサミが理解できないのだろう。だからアサミが怖かったのだろう。そしてまた、アサミの関係者たちの、人生に不満だらけでも死にたくないという感情も理解できないのだろう。彼らはうまくいかない理由を他人のせいにするという間違った考え方をしてはいるが、幸せになりたくて必死だ。死んでもいい、もう満足だ、と思うほどの幸せを感じるためには、努力や苦労をする前から悟ったフリをしてはいけないのだ。ケンヤは、アサミという最も不幸で、最も幸せな女に出会い、アサミを知りたいという強い欲求から変わり始めた。今の子どもたちに必要なのは、周囲への好奇心であるということかもしれない。
幸せとは何か…
この作品は、幸せになれない人間の考え方の具体例を丁寧に描き、アサミを通して幸せだと感じるための方法を示している。アサミという不幸な女が、幸せだと感じて生きていた。アサミは周囲への感謝を忘れなかった。感謝する気持ちこそが自分自身を幸せにする。小さな幸せも見逃さない。反対に、他人に対してもっともっとと要求することは、自身を不幸にすることであると気付かせてくれる。読んだ人に幸せを教えてくれる優しい作品である。
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