静かに浸透していくお話
自然な営み
妊娠という人生の転機を慌てず地に足ついたまま受け入れる姿勢が不思議で、しかし、すんなり自分の中へと落ちていく納得が感じられました。驚いたり、拒絶したり、頭がお花畑になるわけでもなく、今ここにまだ見えないほどの確かな命があることをじんわり体に巡らしている主人公がばなな先生らしいなと思いました。久しぶりにばなな先生の作品を手に取り、恩田陸先生ばかり読んでいた私は柔らかな綿毛の中に身を投げて体を休めるような感覚がしました。物事を客観的に見るさまはどこか冷たく、淡々としていて人間味がないように思えますが、ばなな先生の生み出す登場人物たちはみんな揃って他者と溶け合うことを恐れないしっかりとした意志を持っている気がします。あと、ばなな先生は物語で自分自身を慰め、癒しているのかなとも思いました。実際イルカを執筆中は育児真っ只中のようですし、感情移入しやすさから設定が自然と似た人物になったのかもしれません。自己投影し、作品の中で落ち着くところに落ち着くと、自分自身の悩みや傷も同じように終わりを迎える。それを願っている作品が多いのかなと今回気がつきました。この作品も主人公がインフルエンザにかかるところからスタートします。回復を求めるために小説を書いておられるように思うのです。ばなな先生の望んでいることを作中の人物に与え、不安や辛い思いを和らげて、人との繋がりや考え方を色々な角度から見つめなおせる。それがばなな先生の自然な営みであって、やはりばなな先生の作品は感情の幅が豊かになる素晴らしい作品だと改めて思いました。
ばなな先生の感覚
妊娠すると見えないものが見えてしまう。と主人公は言います。実際に私は見えませんでした。聞こえもしないし、ただただ眠くて仕方がなかった気がします。私はあたたかいご飯がつわりで食べられず、でも、つわりがあるからしっかりとお腹の中で成長してくれているんだという安心感があったことは覚えています。塩分の取りすぎにも気をつけてご飯を食べていると、食材の味を色濃く感じました。泣ける映画は予告で号泣できましたし、情緒の安定は日によって変わるため、自分自身に疲れる時もありました。イルカは今思えば懐かしい感覚を呼び覚ましてくれた作品です。見えないものは見えないままでしたが、音に敏感になり、小さな虫や物の動きは視野に入っていなくても感じたりはしていました。ばなな先生の心理描写はふわっとしていて、直接的な概念を押し付けるのではなく、鋭く中に入り込んでくる文章ではないんだなあと思いました。誰もが曖昧な感情を持っていて、感じ方や受け取り方が違うため、他者に伝えるのはとても難しいです。じわじわ浸透していって、直接食べてもよし、時間をかけて取り込むもよし。受け手側に必ず付け足すよう促す文体だと思いました。そのため、主人公の考えていることが一度読んだ時と二度三度繰り返し読んだ時と理解の仕方が異なるんです。例えばどこが?と言われると困ってしまうのですが、さらっと読み飛ばしていた箇所が徐々に浸透していって自分の中にしっかりと取り込まれると、もう一度読んだ時には妙に納得してしまう、もしくは目について離れなくなる。印象に残る形がはっきりする無意識のうちに馴染む文体で、穏やかに読むことができる作品だなと思いました。ばなな先生の文体に自分に中に眠っていたアンテナのようなものが鋭くなるのを、読んでいて感じました。
法律上の家族
子供にとったら父親で、しかし、配偶者となることを避ければ、男も女も他人。婚姻関係は紙っぺら一枚の事務手続きで築くことができ、やはり離婚も紙を役所に提出すれば完了します。それまでに壮絶な経験をされるんでしょうが、法律上の家族とは形式ばった枠の中の概念なんだなあと。ですが、なぜ主人公は五郎と家族になることを拒むのでしょう。ユキコが気になるから?しかし、アカネちゃんを抱っこさせて警戒心も敵対心も嫉妬心もないように思えます。これがのちのち関係性が落ち着いた頃に入籍するのか。家族というひとつの形になるのか。続きがないためばなな先生の意図はわかりませんが、主人公が一人ではないことは確かです。妹や実父、五郎も頻繁に様子を見に来るでしょう。ユキコも会いにくることはないにしても、どこかで案じてはくれるでしょう。全てを一人で背負い込むことがないからか、さっぱりとした良好な関係という印象のまま終わります。しかし、子供の成長とともに今では調整できている関係も歪み出すのではないでしょうか。明確な答えは書いてありません。ただ、主人公と五郎が結ばれるシーンで、主人公はこう言います。徐々に環境を変えればいい、急激な変化はきっと自分たちがくっついても無理が生じるから。と大人な見解を述べるんですね。真似できません。本当に五郎という人物を丸ごと飲み込む勢いの懐の深さ。嫉妬心が生まれない五郎とユキコの二人の関係性。すべてがうまく噛み合っていなければアカネちゃんも生を受けたことに負の影を引きずることでしょう。ですが、大人たちがみんなしっかりと自立した大人なんですよね。家族になってハッピーエンド!というチープな設定にしないあたり、ばなな先生らしい世界を続けきった終わり方でより一層私は登場人物たちに関心を向けることができました。望んんでいることを小さく裏切ることで満足までに余白が生まれます。その余白が絶妙で、ばなな先生の作品の虜になる所以だなあと思いました。
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