カメルレンゴにみる「天使と悪魔」
神の存在を信じる心
ラングドン教授はカメルレンゴの「神を信じますか」という問いに「心では理解を超えた存在で私がいまだ授かっていない贈り物」と答えます。では神とはどういった存在なのか?それは人知を超えて優れている存在・人類の創造主ともいわれています。宗教的に考えると人知の及ばないところは神の領域で、科学的に考えると未だ発見されていない・現在の科学力ではまだ到達できないことにわけられる事柄なのでしょう。
「神の存在を信じない」と「神の存在を信じる」のとではどちらが正しいのでしょうか?これはどちらも正しいというのが正解ではないかと思います。それは「信じる」「信じない」はあくまでも個人の自由で、また「信じる人を嫌う」ことも「信じない人を嫌う」ことも個人の自由です。それぞれの人がそう思うのにはそれなりの理由があり、それを他人がどうこういうことはできないと思います。ただ問題なのは自分の考えを押し付けようとすることだと思います。「神を信じなさい」「神を信じてはだめ」など相手の考えを変えようと働きかけるのは、どちらの立場であっても相手の考えを無視した行動だと思います。それを踏まえるとカメルレンゴとラングドン教授のやりとりは、相手を尊重したやりとりだと言えるでしょう。
神への冒涜
カメルレンゴは「神の素粒子」と呼ばれている反物質は「神への冒涜」だと言っています。「創造」はあくまで神の領域で、人間が侵してはならない領域だということです。この言葉はクローンなどの問題でもよく出てきます。生命を誕生させるのはあくまでも神の意志で、人間が科学を使って誕生させることは神の領域を侵すことだという考え方です。
「神への冒涜」とは神の名を汚す・馬鹿にするという意味があります。神は尊敬されるべき存在であって、馬鹿にされたり教えに背いたりするものではないという考えです。日本ではよく「バチが当たる」と言われますが、これと同じようなことでしょう。しかし冒涜と感じるかどうかは各個人によるものであり、冒涜と感じるかどうかは「神のみぞ知る」領域です。そのため「神への冒涜」だと言っている者のほうが実は冒涜ではないのかという考えもあります。そんなことで「冒涜された」と思うなんて神は「器が小さい」と言っているようなものだという考えです。
どちらにしても「神への冒涜」というのは人間が考え出したことでしょう。過去にも「神の名のもとに」ということで何度も戦いが起こっています。神の名を出すことで自分たちの戦いが正当なものだと位置づけたかったのでしょう。カメルレンゴにとってもこれは聖戦だったのです。それはカメルレンゴの「戦いを仕掛けられている」という言葉に象徴されているでしょう。「戦いを仕掛けている」のは教皇候補を誘拐したイルミナティではなく、神の領域を侵した科学者とその科学者に歩み寄ろうとしている前教皇と教皇候補だったのでしょう。
科学と宗教の溝
科学と宗教は対立する立場にずっとありました。それは科学が発展すると今まで「人知を超えた」ものだったのが、科学で説明できる「人知が及ぶもの」となってしまうためです。しかし前教皇はこれまでの科学に対するカトリック教会のあり方を改め、歩み寄ろうとしていたようです。カメルレンゴはそのことに対し脅威を感じたため、科学=神を冒涜するもの=イルミナティという図を作り、科学と宗教は結局歩み寄れない立場だということを印象付けたかったのでしょう。一番に思いつく科学と宗教の対立はガリレオの宗教裁判ではないでしょうか?
昔とは違い近年では宗教と科学はお互いが歩み寄っているようです。科学者の中にも神を強く信仰している者も多くガリレオもその一人だったと言われています。ではなぜ科学者の中に強く信仰している者がいるかというと、もともと信仰していたが神の存在をより強固にするため科学で証明しようとする者と、信仰心はなかったが科学を追求していくうちにその存在を信じざるを得なくなった者とがいるようです。教会側もそれに理解を示し「人知を超えるもの」と「人知が及ぶもの」との区別をはっきりしようとしているのかもしれません。
天使と悪魔
「宗教には欠点がある、それは私にも」これはシュトラウス枢機卿の言葉ですが、この言葉の中にはカメルレンゴが行ったことに対する謝罪も含まれていたのではないでしょうか?科学の発展により神の領域が侵されているという考えや、科学に歩み寄ろうとする教会側の立場も「悪」とみなしてしまう考えをもってしまった根底には宗教の教えがあり、「聖戦」「粛清」などの間違った過去が宗教にあるということを認めたからこそ出た言葉なのではないでしょうか。結果カメルレンゴが行ったことはまわりからみれば「悪」ということになりますが、彼は「教会を救うため」という信念に基づいて行っているため本人は最後まで「悪」という認識ではなかったのでしょう。
カメルレンゴが真実を信者に話すべきだと意見をしますが、それでは不安をあおるだけだとして認められません。それどころか教会の隠蔽ともとれる措置を行っています。天使と悪魔という立場で考えるのであれば、カメルレンゴは「天使」で教会は「悪魔」ともとれるでしょう。しかしそこに至る考えを知ると一概にどちらが天使で、どちらが悪魔ということはできないでしょう。この「天使と悪魔」というタイトルは、発した側の価値観・立場だけでなく、受け取る側の価値観・立場によってどちらの立場にもなることを表しているのでしょう。
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