これほどのゲス解釈はあるまい!というくらいやってみました。怒らないでねハルキスト
村上作品解釈、正直疲れませんか?
私は氏の作品は大好きで、小説として発表されているものは全て読んでいる。
村上ファンなら誰もが試みる自分なりの解釈、本書評サイトでもダンス・ダンス・ダンスまでの作品に自分なりの解釈をしているので、是非ご一読願いたい。
読んでいただければ私がどれほど村上作品を愛しているかご理解いただけると思う。
その私を持って1992年発表のねじまき鳥以降の作品の解釈には、徐々に喜びより疲れを感じるようになってきた。
実際、国境の南、太陽の西までは細かい謎はある程度わきに置いても、大筋で読めて、その部分だけで感動できる。
読後の感動があってこそ、後追いで細かいところを解釈していく喜びがあるのだ。
しかし、ねじまき鳥クロニクル以降、解釈を考えながらでないと大筋そのものが分からない、という作品が書かれて行く。
最初はそれを読者への一つのサービスと受け取って皆解釈していたけど、何作も続くと、それでいいのか村上春樹!と叫びたくなってきた人は多いだろう。
そこで本考察は「闇」とか「邪悪」とか「あちら側」とか「コミットメント」とか面倒な言葉を使わず、本文から読める部分だけで、我々凡人の常識の範囲で読み解く。
結果、ものすごくゲスな解釈になったが、あくまでも「こんな読み方もあったか」という程度で見ていただきたい。
最大の謎を最初に解釈
すみれはどこに消え、何をしていたか?
実はどこにも失踪していない。「僕」がギリシャに来た時も近所にいたと思われる。
何をしていたか?ひたすらミュウとの性行為にふけっていたのである。
ミュウの14年前の事件は?
「ノルウェイの森」の構図でいけば、ミュウの役回りはレイコである。
つまり彼女は精神を病んでいる。レイコは阿美寮の存在と直子によって回復したがミュウにはそれが無い。よって彼女は病んだままであり、あの事件は精神を病んでいるが故の幻想である。
レイコは年下の女の子に性行為を迫られて強く快感を感じていた。同じ構図と考えればすみれの行為に対して性的快感を感じ、しかしレイコのように拒否することは出来なかった。そのため、彼女は性の虜になっている。
「ぼく」への説明と整合しないのはなぜか?
普通の人間は自分の性行為の詳細など人に細かく説明しない。特にレズビアンとしての快感を、親しくもない男性に説明することこそがありえない。
では何故「ぼく」をギリシャに呼んだのか?
普通に夫がいるミュウはすみれとの肉体関係におぼれつつも罪悪感を感じていた。
何とか終わらせたい、という冷静な気持ちに傾くこともあり、「ぼく」に連絡したり、すみれが行方不明になったとして警察に通報したりしているのだ。
白髪になったのも実は14年前ではなくこの時である。(彼女の白髪を見たものは他にいない。14年前の事件の事はあくまでも彼女が語っているだけで、「ぼく」が第3者から得た情報ではない)
あまりにもすみれの性的支配が強く、行為はハードであり、ミュウは快楽とともに恐怖も感じていたのだ。
「ぼく」が来たときすみれはどうしていたか。
近所に隠れていただけである。すみれにとって「ぼく」はわがままを聞いてもらう手下として必要である。ミュウに性的な感情を抱いているとは話したが、実際に性行為に及んでみると、ミュウのマゾ性もあり、とても人には言えないようなプレイに毎日ふけっていた。
それ故「ぼく」にもありのままに話すことはためらったのだ。
また、ミュウとの性行為に没頭しているすみれにとっては、「ぼく」の来訪が面倒くさいだけである。適当にごまかして、数日のうちに日本に帰ってもらおう、と思っていたこともある。
「ぼく」とミュウがすみれの捜査を共同で行わないのも上記の理由からだ。
アテネに行ってくる、と言って別の場所で行為にふけっていただけである。
すみれのフロッピーディスクの意味は?
すみれは小説家志望である。あの文章は単なる創作活動として書いていたものをたまたま上記の事情で「ぼく」が見たために謎ととらえてしまっただけ。
すみれはミュウへの思慕故に文章が書けなくなっていたが、性行為が受け入れられたため、精神的にも充足し、再び創作を開始したのだ。
ラストシーンのすみれは現実に日本に帰っているのか?
ミュウとともに、普通に日本に帰っている。
もともと気まぐれなすみれは、数か月に及ぶハードな行為にもさすがに飽きてしまった。
ミュウにしてみればさんざんおもちゃにされた上に捨てられたに等しい。
「ぼく」が東京で見かけたミュウが「まるでぬけがら」になっているのは、拉致に近い状態で強いられた想像を絶するハードなプレイからの解放と、結果的には若い愛人から捨てられた空虚さからくるもの。
そしてこの「ぼく」がミュウを見かけたシーンとすみれからの電話の間の時間間隔は一切書かれていないが、これは翌日とかの短い範囲で起きたことである。
単に日本に帰ってきたので、約束通り「ぼく」に連絡しているのがラストシーンであり、彼女が場所を把握していないのは、彼女が自分で形容しているように「方向感覚は壊滅的」なだけである。
以上だが、
目を覆いたくなるようなひどい解釈である。ハルキストと呼ばれる人々に「電柱に吊るされる」かもしれない。
しかし、あえて言いたいのは、「解釈のための解釈」のような行為がハルキストの中で普通になっている昨今、「ノルウェイの森」の緑が言う、「読んだけど何もわかりませんでした、ハイ」とシンプルな反応も大事ではないか、という事だ。
比較的最近書かれた長編「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は解釈すべき点はいろいろあるが、本筋はある程度読めた。
わかりにくい方向に振れ過ぎていた村上氏がまた振り子のようにわかりやすい方向に戻ってくる事を切に願う
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