人間としての原罪と贖罪の意味を問う、宗教的な寓意を秘めたパニック映画の娯楽超大作
1970年代のアメリカ映画は、グランドホテル形式の「大空港」を皮切りに次々とパニック映画の大作が製作されるようになり、この「ポセイドン・アドベンチャー」がハリウッド映画の伝統である、"スペクタクル劇"の魅力を全編に盛り込み、その大きな決定打となり、その後に続く「タワーリング・インフェルノ」などの一連のパニック映画の大きな潮流を作りました。
この一連のパニック映画を興業的に大成功させたのは、ハリウッドの大プロデューサーであるアーウィン・アレンの功績によるもので、1960年代以降、興業的に衰退の一途を辿っていたアメリカ映画界を甦えらせる大きな起爆剤的な役割を果たしました。
そして、これらのパニック映画は、アメリカ社会の1960年代の経済的な繁栄と精神的な頽廃への人間的な反省を呼び覚ます警鐘としての意味を持っていたのだと思います。 この映画の題名の"ポセイドン"とは、ギリシャ神話の海の神、地震の神の名前で、青銅のひづめ、黄金のたてがみの名馬に戦車を引かせて海に臨むと、どんな大波も鎮まったと言われています。 しかし、この海の神と地震の神という、二律背反的な特質が、そのままこの映画のストーリーと直結しているため、まさしく象徴的で暗示的な題名になっていると思います。 アメリカ映画の題名の付け方のうまさに、いつも感心してしまいます。
原作はポール・ギャリコ、脚色は人間の心理探求の描写に抜群の冴えをみせるスターリング・シリファントとウェンデル・メイズ、そしてこの超大作を監督したのが、私が愛してやまないミュージカル映画の秀作「クリスマス・キャロル」のロナルド・ニームという素敵なメンバーが集結しました。
映画の筋書きは簡単明瞭で、要するに「真っ逆さまに転覆した大型の豪華客船からの決死の脱出行」という直線的な構成です。 地中海をアテネに向けて航行する1,400人の乗客を乗せた8万トンの豪華客船"ポセイドン号"、それは"一つの孤立した社会"でもありました。
この"ポセイドン号"が、ニューイヤー・イブの賑やかなパーティの真っ最中に、突然の海底大地震の大津波によって、一瞬にしてひっくり返ります。華やかで幸福に満ちた平和から一転、逆さ地獄へと突き落とされていきます。 この"ポセイドン号"は、アメリカ西海岸のロング・ビーチにあるクィーン・メリー号で映画のロケーションをしたとの事ですが、この"ポセイドン号"が真っ逆さまに転覆する時のダイナミックでハラハラ、ドキドキする大スペクタクルのシーンには、まさしく手に汗握る迫力があって、一瞬たりとも画面から目が離せません。
当時のアメリカの新聞で、「セシル・B・デミルのスペクタクル精神と、ウォルト・ディズニーのファミリー・ピクチュアの健全さを併せ持つ、アメリカ映画の伝統を生かした最も見事な傑作」と大絶賛されたのがわかるような気がします。
特等室の乗客が集まっていた上甲板の、豪華な天井の高い大食堂が、天地を逆に、海中へとひっくり返る上下逆転する場面の迫力は物凄く、着飾った紳士淑女が、今や真上になったフロアーから、足下の天井のシャンデリアに向かって、真っ逆さまに墜落していくシーンをワンショットで見せるロナルド・ニーム監督のスペクタクル演出の腕が冴え渡っています。
その後、静寂が戻り、この巨大な、そして逆転した密室からの決死の脱出行が始まります。 この、いわば極限状況での乗客たちの行動は、3つのグループへと分かれていき、その各グループ毎にリーダーが決まっていきます。 船底(大食堂の天井)には、事務長を中心に集まるグループがいて、彼等はそのままじっと動かずに、海底に面した甲板からの救出を待とうとします。 この考え方は、このような異常な状況の下では、通常の救助方法のように思われますが、過去の慣例が染み込んだ思考方法の事務長には、それ以上の別の判断が出来ません。 この既成の、保守的な、そして職業的で画一的な判断は、多くの無気力で、事なかれ主義の乗客たちを、この事務長の周囲に引き寄せます。
一方、人間くさく、現実的で異端的なスコット牧師(ジーン・ハックマン)----左遷されて北部の教会から、更にアフリカの新しい任地に向かっていたスコット牧師は、その強引とも思える指導力で9人の乗客たちを引きづって、上部(船底の機関室)に向かって皆を先導して、必死になってよじ登って行きます。 この9人の乗客を演じるのが、ニューヨーク警察のアーネスト・ボーグナインとその妻のステラ・スティーヴンス、船客係のロディ・マクドウォール、独身セールスマンのレッド・バトンズ、初老夫婦のジャツク・アルバートソンとシェリー・ウィンタース、歌手のキャロル・リンレイ、幼い弟と旅行に来たパメラ・スー・マーティンとエリック・シーアというワクワクするような面々で、特に、シェリー・ウィンタースが危機打開のため、危険を顧みず自らの命をかけて、果敢に水中に飛び込んで行く、その体当たりの演技には心からの拍手と、そして溢れる涙を禁じえませんでした。
そして、スコット牧師の数々の難関にぶち当たっての的確で迅速な判断は、今回の航海中に好奇心から船の事に詳しくなった、賢いロビン少年によって助けられたりしますが、まるでこの少年はその背中に翼を持ったエンゼルでもあるかのように描かれていて胸が熱くなります。 そして、このスコット牧師はまるで、西部劇の中の幌馬車隊を率いるリーダーのようでもあり、恐らく、製作者たちの意図するその原型は、"「ノアの箱舟」を導く神であり、モーゼであり、彼のその最期はイエス・キリスト"そのものであると思います。
この決死の脱出行の途中で、彼と全く同じ性格のロゴ刑事(アーネスト・ボーグナイン)と再三再四、グループの指導権をめぐって争うスコット牧師の姿に、"指導者の苦悩と全責任"が集約されているようで、指導者、リーダーの在り方について非常に考えさせられます。
そして、スコット牧師のグループが、脱出行の途中で出くわすのが第三のグループで、彼等は、水面に近くなった下甲板の二等室の乗客のグループだと思われますが、船医に導かれて、まるで亡霊のように出口のありようが無い船首の方向へと歩いて行きます。 恐らく、船医は船の爆発音から考えて、機関室は既に破壊されていると勝手に判断していて、それを確かめてはいないのだと思います。 ここにも、人間の運命の一つの決まり方をみるようで、ゾッとするような戦慄を覚えます。
そして、これら3つのグループの内、スコット牧師のグループだけが、プロペラ・シャフト・トンネルを通って、船尾に活路を見出すのですが、映画のラストシーン近くで、スコット牧師が他の生き残ったグループのメンバーを助けるために犠牲的な行動をとる時に、「私たちは自力でここまで来た。あなた(神)に感謝などするものか。いったいどこまで邪魔をしたら気がすむのか、これ以上の犠牲をお望みか」とイエス・キリストを暗示させる姿で叫ぶ、この言葉の中に、"人間としての原罪と贖罪の意味を問う宗教的な寓意"を秘めた、映画史の中でいつまでも記憶に残る、優れた名場面になっていると思います。
なお、この映画は1972年度の第45回アカデミー賞で最優秀歌曲賞を主題歌の「モーニング・アフター」が受賞し、特別業績賞(視覚効果)も受賞し、同年の第30回ゴールデン・グローブ賞でシェリー・ウィンタースが最優秀助演女優賞を受賞し、同年の英国アカデミー賞でジーン・ハックマンが最優秀主演男優賞を受賞しています。
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