「裏切り」とは - 乱の感想

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4.504.50
映像
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脚本
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キャスト
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音楽
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演出
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「裏切り」とは

4.54.5
映像
5.0
脚本
4.5
キャスト
4.5
音楽
4.0
演出
5.0

目次

三本の矢と「裏切り」

この長編作品のテーマは、一度ご覧になった方々はお分かりだと思いますが、「裏切り」であります。ご存じの通り、実際の戦国時代でも、父、子、兄、弟、一族、家臣、同盟相手の裏切りは、頻繁にあったことでありますが、「乱」という作品は、繰り広げられる乱世の「裏切り」の恐ろしさ、罪深さ、虚しさ、おぞましさ、情けなさをリアルで、醜く且つ美しく、鮮明で、そして激しく描いています。何故、人は人を裏切ることが出来るのか。どのようにして裏切るのか、一体、後ろめたさはないのか。人間とは一体何者か。「乱」では、それを深く、これでもか、これでもかと突き詰めて行きます。

三人の息子

元々、冷酷非道なやり方で、敵味方を騙し、戦国の世を渡りきり、領土を拡大していった一文字秀虎は、「裏切り」そのものの完成体と言えます。その「裏切り」では、罪深さ、虚しさ、おぞましさなどが表れています。この人物が、人を裏切ることができるのは、そのことを罪と思っておらず、自分の欲望に忠実に生きています。そして、その父の冷酷無比の「裏切り」行為を、幼い頃から冷ややかな目で見てきた、完成体の子たちである嫡男太郎、次男次郎も「裏切り」の具現体となってしまいます。従って、この二人も、人を裏切ることに、罪悪感を感じないし、恥とも思っていません。

彼らが、秀虎が隠居した後に、父をいとも簡単に裏切ったのは、歴史的完成体が崩壊する必然性でした。彼らの「裏切り」は、業の深さ、冷酷さで構成されています。そのように、二人を育てたことを、秀虎は、全く、理解、想像、受容出来ていなかったのです。謀略に長けて、誰も人を信じず、冷酷非道な秀虎が、自分の「裏切り」の遺伝子を受け継いだ息子たちの謀反に、気付かなかったのは、まさしく歴史の皮肉としか、いいようがありません。三男三郎は、父親の冷酷非道な行為を見ていても、反面教師としてしか見ておらず、父親と同じ道を行かずに、自分という確固としたものを持っており、太郎、三郎とは異なる「忠」、「孝」の思想を持ち、「裏切り」と言う範疇から全く外れていました。そして、父親に反発していたものの、自分を追放した秀虎が、謀反を起こされ、窮地に陥ったと聞き、秀虎を救おうと決意したのです。

それぞれの「裏切り」

また、「乱」は、「裏切り」を平然と行っている者たちの人間性を細かく描写しています。一口に「裏切り」と言っても、同じものではなく、登場人物たちで、それぞれで異なっています。この作品では、太郎、次郎が、人は裏切るのは、一文字家の当主となり、自分の権力を強化し、領土を拡大したいという野望からであります。それは、「野心的裏切り」、もしくは「利益的裏切り」です。楓の方は、自分の一族を滅ぼした秀虎への深い恨みを晴らすことでした。「復讐的裏切り」です。

アカデミー賞を受賞した「影武者」も名作でありましたが、この「乱」も、アカデミー賞を受賞してもよかったと思うくらい、クオリティの非常に高い作品です。一文字秀虎を始めとした登場人物、野戦場、城内、山や野原などの領土の背景の描写が、登場人物の「裏切り」を単純には描かず、その複雑性を見事に描き切り、それぞれの人物の「裏切り」を鮮明に描き切っています。しかも、非常に優れた描写です。観た人を一気に惹き付ける作品であります。なぜ、この作品は、アカデミー賞を取れなかったのかが、不思議で仕方がありません。

秀虎は、「裏切り」行為を準備していた、太郎と次郎の言うことを信じて、それに反対した三郎の意見をはね除けたことが非常に不思議でした。なぜ、秀虎は、太郎、次郎の思惑を見破ることができなかったのか。その箇所は、明確に描かれてなかったのか、いや明確に描かれています。それは単に、秀虎の老いへの恐怖と言う言葉に収斂されていきます。冷酷非道な秀虎から冷遇されて、父親に諫言して追放された三郎が、それでも秀虎への愛情を失わず、とことん心配していることは、感動し、心に突き刺さるものがありました。これこそが、まさに「孝」であると。そして、三郎は、「裏切り」から遠く離れて、「孝」の思想を守り通すという人間的な魅力を感じました。

それと対比して、他の者たちの「裏切り」に次ぐ「裏切り」で、人間の業の深さを感じざるを得ませんでした。まさか、ここまで深いとは。その点で言えば、この映画での「裏切り」の狂言回し的役割である楓の方の存在と行動が、一文字家を破滅へと導き、「裏切り」という言葉をより深化させていき、作品に置いての楓の方のポジションの重さを感じさせました。重要な存在のキャストです。そして。楓の方と存在状況は似ていても、真逆の性格の人物で、他人を疑わない末の方の純真で美しい心が、この作品での一抹の救いでもありました。人は何故裏切るのだろうかと、深く考えさせられる作品であります。その点で言えば、娯楽性を求めるべき作品ではないと思います。

燃えさかる城

太郎と次郎に簡単に裏切られた秀虎ですが、城内で、自分の家臣や女たちが次々と討たれていくのに、為す術がありませんでした。己の無力さを痛烈に感じたことでしょう。「裏切り」に押し潰されていく秀虎が、その煤けた頬、黒くへこんだ瞳、ばらばらな白髪の髪型になっていきます。そして、この状況に堪えられなくなり、ついに発狂したのです。そのシーンが切なくて、もの悲しかったものであります。次々と手段を選ばず、敵を殺していった冷酷非道な秀虎が、そのような状況は、今までなら十分に慣れているはずなのに、発狂してしまったのは、まさに意外としか思えませんでした。

秀虎の発狂

敵軍に城に火をつけられ、紅蓮の炎の中で燃える盛る城から、発狂した秀虎が、ゆっくりとゆっくりと、天守閣から城門を出て、城の外に歩いて行くシーンは、その歩いて行くシーンに時間をかけることで、ますます緊迫感があって、盛り上がり、秀逸なシーンでありました。そして、燃えさかる炎と立ち上る煙が、格別に美しかったのです。狂気の美しさです。まるで美しい絵画を見つめ続けている感じでした。

このシーンは、テーマである「裏切り」を最も具現化したところで、「乱」での一番の見所であると思います。究極のリアリズムを求める黒澤明監督が、本物の城を予算を度外視して作り、折角作ったのに、落城させるということで、たった一回のシーンの撮影で、あっという間に燃やしてしまいました。そのような一回限りでの撮影は、安易には、やることはできません。黒澤明監督の度胸と名声と「乱」への情熱が、そのような無謀な撮影を行わさせたと考えます。その撮影を見事にこなした名優仲代達矢の狂気と恐れを体現した見事な演技力と巨匠黒澤明監督の演出力、統率力と優れた技術力を持つ黒澤組の撮影スタッフの技量は、実に見事であり、その働きに感動しました。それは鬼気迫るものがあり、戦国乱世のリアリズムを皆が緊張感を持って見事に再現していくことが、伝わって来て、観る側のこちらも緊張しました。そして、城の落城シーンは見事に描かれていました。秀虎の鬼気迫る顔、焼け落ちる城の儚さ、討たれていった家臣たちの悲劇は、脳裏に今でも焼き付いています。


「裏切り」の終わり

結果的に、「裏切り」は失敗したのです。誰の「裏切り」もです。「裏切り」に加担した者も、それに抗した者も亡くなり、その存在が消え、「裏切り」の虚しさ、切なさ、儚さが実感されます。実に優れた作品でありました。「乱」も、「リア王」と同じように、バッド・エンドで終わりますが、悲壮感は、ありませんでした。確かに、三郎の死は、悲劇的でありました。「裏切り」の世界から離れて生きていき、「忠」、「孝」の精神で生きてきた、義の人物である三郎が亡くなったことは、残念でした。逆に、冷酷非道なやり方をしてきた秀虎は、因果応報で、酷い死に方をするであろうと思われていましたが、数々の「裏切り」に合っても、三郎に先立たれても、発狂から戻り、人間らしさを取り戻し、静かな死を迎えました。人間の悲しさ、業の深さ、虚しさ、愚かさが、絶妙に描かれており、戦国時代という非日常の映画でありますが、日常にも繋がる作品でもありました

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