エンタメじゃないと思うなら、今の私にもきっといいんだ。
大変率直な話。
感情移入できない!
私は37歳だ。マンガ読みの歴史からすると大変な若輩者であろう。
しかし、今は幼少期からマンガを読む時代。私のような中年ですら入り込めないこの物語を、子どもたちはどのように読むのか。
絵で受け入れられないのではない。奇子、ガラスの城の記憶など、大人が読むことを意識した時の劇画寄り手塚絵。日本漫画界の始祖として考えてもいいであろう絵なのに、こと絵に対しては手塚漫画にまったく抵抗は感じない。多分、子どもにアトムやユニコを見せても受け入れることだろう。戦後盛り上がった日本漫画界の重鎮たちの絵が漏れなく古びてきて、「昔はこんな職人芸で紙面を作っていたんだねフィルター」をかけないと見られなくなっているのにこれは本当にすごいことだと思う。当然、演出やコマ割りも問題ない。
もちろん、第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した名作で、業界的な評価も高いと言える。
しかしそれでも、物語は他人事として目の上をツルツルと流れていく。
では何が感情移入できない理由なのか。理由はあまりにも多岐に渡る。
戦時下のプラスマイナスのバイタリティに感情移入できない
戦いすぎだ!峠草平!!
新聞記者で元陸上部で足が速くて、ってそれだけでこんなにサバイバルできるものなのか。
物理的な戦いの他にも、仕事をなくしても執拗に弟の仇を追い続けたりそんな中でも女将とイイ感じになったりする精神的、性的バイタリティ。数日のことならいざ知らず、人生までかけてる。
これは、歴史的背景もあるだろう。戦時下、生活レベルは現代と比較にならないほど低かった。ネットもねえ、仮想通貨もねえ、車もそれほど走ってねえ。そんな状態で更に戦中という特殊な時代では仕事を40年勤続しましたという人間の方が稀だろうし、生活費を日雇いで稼ぐことへの抵抗感も薄かっただろう。SNSもないし、法的にもいろいろユルかっただろうから一夜限りの関係なんてちょっとした娯楽感覚だろうし。
また、敵の執拗さもすごい。特高の赤羽サンとか、ちょっと精神的に病んでるでしょ?家帰ってビールとか飲んで寝れば?と心配になるようなしつこさ。何巻に渡って出てきてるんだよ・・・。
ただこれも、戦後の日本の警察のイメージで考えてしまうとややおかしなことになってしまう。
山本直樹のREDという漫画がある。世に名高い、浅間山山荘事件や山岳ベース事件を下敷きにした学生運動の物語である。
戦後しばらく経ってからの時代背景ではあるものの、警察と学生たちとの距離はとても近い。
今現代、お巡りさんがやることは絶対的な正義であり、私たちはお巡りさんに道で会釈されれば少々かしこまりながら会釈を返す。車を運転していれば、パトカーが通り過ぎることに身を固くした経験も多いだろう。私たちは警察を軽く恐れ、そして信用している。
しかし、学生運動の時代には、学生たちが反体制のために警官を殺すということがややあったのだ。
それは、戦時中に警察がしてきたことへの反発だ。警察は戦時下において、庶民を苦しめ、虐げていた。警察と民衆は相互反発の歴史を繰り返し、落ち着くべき所へ落ち着いたのである。
と・・・
そんな時代感覚を、この21世紀に、身に着けているマンガ読みなどおらんのですよ。
アドルフに告ぐが発表されたのは1983年から1985年にかけて。そのころであれば、戦中生まれ、あるいは戦後すぐくらいの生まれの知識人が社会派手塚漫画を読むなんてこともあっただろう。そんな人であれば、直接戦時の記憶がなかったとしても親から聞いたりして生々しいイメージで読むことができたのではないだろうか。
しかし、再度言うが今は21世紀。戦争は遠くなりにけり、なのである。
異民族との微妙な摩擦に感情移入できない
さて、私は生粋の日本人である。
その上、埼玉の新興住宅地で子供時代を送った。親は東北と関東の出身で、育った場所でしがらみなど一切感じたことはなかった。こういう幼少期を送った人は日本人では相当数になるのではないかと思う。
そうなると、ユダヤとゲルマンの確執がいまいちしっくりこないのである。
もちろん、いつかのニュースや歴史の教科書上、ヒトラーがユダヤ人を迫害していたことは知っている。しかし、それは現実の感覚ではない。
もちろん、手塚治虫は読者の意識を近づけるためにアドルフ・カミルを登場させたのだろう。
だがしかし、それすらも時代は超えてしまった。現代日本において、外国人と生活を共にすることはもはや珍しいことでも何でもない。コンビニではインド系の奥さんたちが懸命にレジを打ってくれ、六本木あたりに行けばイケてる白人男性が日本人妻を連れて歩いているなんてむしろ羨望の対象だ。道を行くランドセルの集団の中に、明らかに肌の黒い女の子が混ざっていることも、子どもの保育園の名簿に「朴」とか「トッド」などが入っていることも取り立てて話すほどのことでもない。
戦時中、特に関西方面では、カミルのような白人種もいれば朝鮮民族、漢民族なども入り乱れ、差別もあったのだろう。
しかし、戦後私たちは徹底して「仲良くしましょうネ」教育を受けた。それは世界とも、そして隣人ともだ。戦時下のような食うや食わずやの世界では、人は様々な違いを見つけては弱者を攻撃し、なんとか自分が生き残ろうとする。しかし日本は急速な復興を遂げ、ゆとりを持った。ゆとりは多様性を容認する。
現代の私たちは、他者を攻撃する原因となる貧しさを忘れてしまったのだ。
そのため、アドルフに告ぐの骨子である他民族が共に暮らすことの弊害、そしてユダヤ人に対するゲルマン民族の狂気について、いまいちピンとこないでいる。
オンナの扱いに感情移入できない
消耗される女子!
タイトルはアドルフに告ぐ、であり、主役は当然3人のアドルフだ。
しかし、それにしたってこのひどい扱いの女性たち。
拷問を受けまくる小城先生もかわいそうだし、いきなり死んじゃうローザもかわいそう。
でも、一番納得いかないのは峠草平がモテまくることだ!
完全割り切り大人の関係からプラトニック、果ては後妻さんと家庭を持つって全方向のモテぶりじゃないですか。どうしてですか。
これは私が女だからということもあるのかもしれないが、やはり時代として、女は華、そしてアイテムとして扱われている気がする。
由季江サンは家族の象徴。仁川三重子は娘か妹のようなイメージ。どの女性と付き合っているかで、草平のその時の動き方に制限がかかる。
しかしそんな女性の使い方は、この女性ユーザーが増えた今にフィットしていないと言わざるを得ない。
現在、日本人はスマホ、紙コミック双方において、男女ともに80パーセント以上がマンガを読むという。10人いたら8人の女性が、アドルフに告ぐを読む可能性があるのだ。
過去、マンガは購入しなければ読めないものだったため、手塚社会派漫画を手に取る女性という想定はされていなかっただろう。しかし、現在はスマホでどんなコミックスでも手元で読むことができる。本作をダウンロードする女性ユーザーが多いとは言わないが、手塚治虫が本作を執筆した時の予想を上回っていることは確かだ。
アドルフに告ぐの想定読者は知識のある中年以上の男性、できれば戦中生まれという絞られたターゲットになっていると思う。私に全く当てはまらない要素ばかりだ。
アドルフって誰だっけ。
そしてこれが、最大にして最強の感情移入できない理由であると思う。
私たちは、ヒトラーの名前をフルネームでは覚えていない。作中、アドルフ・カミルもアドルフ・カウフマンも認識した。でも、3人目って誰だっけ。あ、ヒトラーだ。
このピンとこなさが、この作品への感情移入を決定的に妨害しているのだ。
これに関し、私が特に不勉強だとは思わない。人間は自分に必要のない情報は忘れていく。知識として知っていても、日常に不要であれば記憶は追いやられてしまうのだ。
ドイツの高校生は、修学旅行先がアウシュヴィッツの収容所であると先日TVで見た。また、ナチスの敬礼を思わせる挙手の動作を一切禁じられているとも聞く。それほどまでに日常に入り込んでいない限り、古い戦争の歴史を忘れていくのは当然のことだと思う。
もちろん、手塚治虫も「アドルフ」という言葉の婉曲さは理解しているはずだ。いつでもヒトラーを意識してほしいなら、そのものずばりタイトルにヒトラーという語を含めることだってできたはずだから。むしろ、アーティストとしてのあえての命名であろう。
しかし、私たちの脳は、いくつものいくつものできない感情移入のハードルを乗り越えて疲弊している。最後にババーンと「アドルフに告ぐ!」と言われても、分からなかったことがまたひとつ、勝手に提示されたという印象にしか過ぎない。
現代日本において、本作をエンタメ作品と読むことはなかなか難しい。
もちろん、演出や設定などは目を見張るものがある。
しかしそれでも、読んでいて親しめないこの感じは、本作を図書館のヤングアダルト棚から歴史棚へそーっと移し替えたくなる衝動に駆られるのだ。
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