いい意味で青臭く、どこか懐かしいような青春小説
目次
仲間の死の知らせから始まるストーリー
この作品は、主人公である佐千子のもとに、昔の仲間の死を知らせる電話が入ることから始まる。中学時代、遠泳チームを組んだ8人とはなにかある度に集まる大切な仲間だ。そのうちの一人である義朝が、昔皆で遠泳した懐かしい海で死んだという。訃報を受けた佐千子はその海に皆で集まる提案をするが、そこから話は大きく展開をしていく。
冒頭部分は、とにかく情報が多い。8人の個性、現在の状況。義朝がなくなった事故の描写。中学時代の遠泳の描写。シンボルであるしゃもじやチーム名の由来など、とにかくいろいろな情報がなだれこんでくる。しかしそれを頭の中で処理するのはまったく苦ではなく、まるで映画を観ているように自然に頭の中に入ってきた。それはおそらく8人のキャラクターがきっちりと立っているからだろうと思う。そして過去の遠泳の描写はそれこそ映像的で、頭にすんなりはいってくるものだった。
だからこそ死んだ義朝の存在の大きさ、その大切さが読み手にも伝わってくる。だからこそ皆で思い出の民宿で集まった時、今まで普通に会っていた友人の突然の不在のいごこちの悪さを、彼女たちと同じように感じることができた。
義朝が死んだ海でごじべえに集まった7人
義朝が死んだ海は皆で遠泳をした場所だ。そこでジェットスキーと衝突して義朝は命を落とした。その海の近くにあるごじべえという民宿は当時からあり、中学生たちの遠泳をなにくれとなく面倒を見てきたオーナーも健在だ。そうしてそこに集まった7人は昔話に花を咲かせるのだが、ここの場面は少し冗長に感じた。
そもそもこの海に集まるからには、義朝が死んだ海に対して花を流すとかなにか慰霊的なことをするだろうと思っていたのだけど、結局皆で集まって飲んでいるだけというのがちょっと物足りない。しかもこの場面がかなり長い。今の話と昔の話が入り混じり、当事者たちは楽しいだろうけど読んでいるこちらはちょっと入り込めなかった。そもそもストーリーは始まったばかりで、そこまでこの7人に感情移入しているわけでもない。だから、その会話にもついていけず、若干文章が目すべりしてしまった。
その上、千夏やのぞむの身勝手さに感じる苛立ちもそれに拍車をかけてしまい、ところどころ読み飛ばしてしまったくらいだ。
もちろんこの読み手が感じる登場人物の個性による苛立ちは作者の意図によるものだから、本来なら好ましい。だけどこの場面だけはどうしてもあまり気持ちが入り込めなかった。
あまり魅力を感じない主人公、佐千子
この作品の登場人物たちはみな個性がきちんと立っている。その個性ゆえの行動にはブレがなく、読んでいて混乱することもない。それはとてもいいことなのだけど、いくら個性が立っていても好みでない登場人物はいる。この作品の主人公である佐千子もその一人だ。主人公でありながらどこか覇気がない。中学の時、学級新聞のようなものを作るのがうまかった佐千子は、義朝が死んだ海で皆と集った後その新聞を復活させる。そのテンションの高い内容と彼女のぼんやりとした印象がどうにも一致せず、また「ことりっぴ」というようなファンシーなペンネームも意外で、この作品では唯一性格のつかみにくい人物に感じた。
また環が自分に思いを寄せているのはうすうす感じていながらも、常にはっきりしない態度だ。また心配してアパートに来た環を“友達のハグだ”と言って抱きしめるところなど、女性としてあまり好きになれない。“思わせぶりなことをした”と反省はしているけど、そこもどこかしら悲劇のヒロインのような自己陶酔が感じられた。
主要な人物が魅力がないのは、小説としては時として致命的だ。でもこの作品に関して言うとそこまでではない。それはきっと他の登場人物たちが生き生きとしているからだと思う。
特に、恋に仕事に奔放なマリカや、自分の気持ちにいつも正直な環などは読んでいて好感が持てる。このようにまっすぐ生きられることは逆に自分に自信があるからこそだと感じさせてくれる人物たちだ。
彼女たちがいるから佐千子のような登場人物がいても、まだ読める仕上がりになっているのだと思う。
もう一人の魅力のない登場人物、のぞむ
佐千子の元恋人であるのぞむも魅力がない。ニューヨーク帰りだかなんだかしらないけど、態度が不遜だ。千夏と適当につきあっているのかわからないけど、中途半端な別れ方をした佐千子の前でその態度を隠そうともしない不誠実さに、腹が立った。またその隣でチャラチャラとしている千夏も好感が持てない。
何より、そんなのぞむをまだ好きな佐千子の気持ちが一切わからない。のぞむにどんな魅力があるにせよ読み手はまるで実感できないのに、佐千子の変わらない気持ちばかりが強調され、それが余計こちらのイライラを増幅したように思う。
またニューヨークでルームシェアしているという子持ちの中国人にもあまりにも不誠実だ。助け合うというよりは、ただ面倒を見られているだけのような気もする。きわめつけは、すい臓炎で倒れたのぞむが佐千子の名前を呼び続けたことだ。それほど忘れられずに大切に思っていたという気持ちはいささかもそれまでののぞむからは感じられず、後付けの設定のような気さえしてしまった。
対して環は昔からそんな佐千子が好きで、それがあまりにも気の毒なのはそうなのだけど、同じように佐千子のどこがそれほど好きなのかが伝わってこない。
この作品は昔の色鮮やかな思い出が映像的によみがえる場面は素晴らしいと思うけれど、恋愛の描写は個人的にはあまり好みではなかった。
角田光代「3月の招待状」との類似点
この「空しか、見えない」という作品を読んだ後、どこかで似たような作品を読んだような気がして思い出してみたら、角田光代の「3月の招待状」だった。「3月の招待状」も大学時代の昔の仲間と30を超えた今でも頻繁に会っており、その絆は恋人を嫉妬させるほどだ。そしてその中の女性は今でも昔のままその仲間の一人の男性に恋している。その男性がこれまた魅力がない上に、個人的には一番嫌いなタイプだった。そんな不誠実な男をどうしていつまでも追い続けるのかよくわからなかった。
この男性がのぞむとオーバーラップしたのは言うまでもない。
また他の類似点として、恋人がその仲間の絆に嫉妬して相手を必要以上に束縛したり、集まりに行くことを嫌がったりしたことも似ている。「空しか、見えない」では、純一の年若い婚約者がそうだった。ピアノ演奏家の純一が、ハードな運動である遠泳をすることをイメージが違うと怒り、またどうしてそんな子供の頃の仲間といまだに会うのか理解できないと怒る。でもその幼い怒りの根底には、その仲間以上の存在に自分がなれないのではないかという焦りがある。それを感じるから、純一の恋人は嫌いになれなかった。それと同じように、「3月の招待状」でも恋人にそのような駄々を捏ねた女性を嫌いになれなかったことを覚えている。
そのように、この2作には多くの類似点があった。ただ「3月の招待状」のように、同じ大学の仲間だったというだけの絆よりは、この「空しか、見えない」の遠泳チームの絆のほうが強いような気はする。
苦しくも生き生きとしたラストの遠泳シーン
最後の場面は、もう一度懐かしい海で遠泳をして終わる。2キロという本格的な遠泳のため、それぞれ皆トレーニングをして万全の態勢でその日を迎える。
そして中学の時そのままの掛け声で、自分なりのペースで泳ぎ始めるのだが、その描写がとてもいい。義朝の死によって当時のメンバーは揃わなかったけれど、義朝の残された恋人とフーちゃんの恋人が新しく加わった。この遠泳はまったく当時と同じではないが、同じである必要はない。それどころかそれぞれの人生を新しく踏み出すような、そんな力強さを感じた。苦しくなったら浮き身をして流れに身をまかせると楽になるというのも、生きていくことによく似ている。
この最後の場面は遠泳ならではの息苦しさも十分に感じたけれど、それ以上に波の上下や、それに伴って見え隠れする空。苦しくなって手をつなぐ安心感。日常の悩みが体から流れ出てしまうような爽快感。そういったものをまるで一緒に泳いでいるかのように実感できるいい場面だった。
浮き身をしている時に誰かが言った「空しか、見えない」というこの言葉。タイトルにもなっている言葉だけど、この言葉がすべてを表しているような、そんな気がした。
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