ヨーロッパを裏で動かす政治的メカニズムの複雑さを、緊迫した迫真のタッチで追求した 「オデッサ・ファイル」 - オデッサ・ファイルの感想

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ヨーロッパを裏で動かす政治的メカニズムの複雑さを、緊迫した迫真のタッチで追求した 「オデッサ・ファイル」

4.04.0
映像
4.0
脚本
4.0
キャスト
4.0
音楽
4.0
演出
4.0

ヨーロッパの建物は、表側はまるきりくすんで見える。古ぼけ、汚れ、秩序を保って静まりかえっている。街は、昼でも、まるで眠るかのように淡彩で冷静だ。

しかし、一歩、暗い廊下を通り抜け、室内に入ると、たじろぐほど驚かされる。そこには、執念深いさまざまな民族の、歴史と知恵とが絡み合って作り出した文化が、絢爛たる複雑さで、密度濃く、重たげに渦巻きあって息づいているからである。

建物や住居だけではない、これはヨーロッパ自体の本質なのだと言えるだろう。フランス料理の煮込みひとつにしても、外見はただ、どろどろと地味なだけなのに、実はその中身たるや、呆気にとられるほど複雑極まる、さまざまな素材と面倒な調理の結晶なのだ、といった具合に-------。

我々映画好きを狂喜乱舞させたフレデリック・フォーサイス原作、フレッド・ジンネマン監督による映画化作品の「ジャツカルの日」-------。あの面白さの根本は、ヨーロッパのこの特質を最も今日的で刺激的な局面において切り裂いてみせたこと、そこにあったと思います。

もちろん、ジャッカルという殺し屋が、フランス大統領ドゴールを狙ったなどという設定は、完全なフィクションだ。あの作品のサスペンスは、そのフィクションよりも、ヨーロッパの権力が、世間の表面には出ない複雑緻密な組織や連帯を、徹底的な執念で動員して、それを抑えつけ、しらみつぶしに反権力の根を洗いたてようとした、その実証的な迫力にかかっている。

この世の中は、決して、表側に見える単純形だけで成り立ち、動いているのではない。「ジャッカルの日」が、ワクワクするようなサスペンスを生み出せたのは、ヨーロッパが歴史と国々の絡みで育てた、この裏のメカニズムの複雑さが鮮明に浮き上がったからであった。

「ジャッカルの日」に続くフレデリック・フォーサイスの長編小説「オデッサ・ファイル」も、表面に出ないからこそ恐ろしい、ヨーロッパを裏で動かす政治的メカニズムの複雑さ、特にその国際性を切れ味鋭くスパッと割ってみせたやり方では、全く「ジャッカルの日」と同じ方向感覚に立つ作品であると思います。しかも、その断ち割りの狙いが、ヨーロッパに今なお死なずに息づく右翼ファシズム思想-------その摘発と警告にあることでは、テーマもまた完全に同じだ。フォーサイスはそこに自分を賭けているのだ。この原作小説を「クリスマス・キャロル」「ポセイドン・アドベンチャー」のロナルド・ニームが監督したこの「オデッサ・ファイル」を観れば一見してわかります。

フォーサイスがここで指摘した、ヨーロッパを裏で動かすメカニズムは、「ジャッカルの日」より更に、私たちに切実深刻重大な意味を持っている。ナチ・ファシズムの残存が、実はドイツ人とユダヤ人の確執という問題からアラブとイスラエルの中東の対立へ結びつき、つまり、それはひいてはアメリカから日本を含めた世界全部をも巻き込みかねない波紋を広げていくという課題が、この優れて政治的なドラマの下敷きになっていると思います。

映画では、原作の小説ほどには鮮明に掘り下げられていないが、このドラマが1963年11月、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺のあの日のハンブルクから始まるのは、アメリカの動きもヨーロッパを揺らし、ヨーロッパの動きもまたアメリカに響く、その汎地球性を強調したい作家の一戦略だったのだと思います。そしてこの「オデッサ・ファイル」が新たに繰り出す鮮烈な作戦は、世界を動かすそういう"裏の現代"へ挑戦していく選手が、アマチュア市民だという、その親近感とリアリティなのです。

このドラマの主人公のペーター・ミラー(ジョン・ボイト)、彼はフリーの青年ルポライター。日本の俗語に直せばトップ屋だが、実は作者のフォーサイスが強調するのは、青年のその職業より、彼がフリーであること、つまり、社会に対して、押しと行動力と知恵を武器にする以外、コネも資金も組織のうしろ盾も持てない、ひとりっきりの市民だという、その身近さなのだ。"ジャッカル"もまた孤独で闘った男だが、彼はどこまでも超人的なプロ。つまり、市民ではなかった。私たちの仲間ではなかった。

舌打ちしたいくらい巧いのは、この「オデッサ・ファイル」が、観る者のサスペンスを二重のインタレストで釣り続けながら進行する、その展開なのです。ミラーは、ケネディ大統領暗殺のあの日、ハンブルグの裏町で、ひとりの貧しいユダヤ老人が、生活に疲れてガス自殺したのを目撃し、その老人の残した日記に、心惹かれるのだった。

かつて強制収容所の囚人だったこの老人は、ユダヤ人がドイツ人から受けた暴虐と屈辱をこまごまと綴り(これが黒白の映像となって現われる箇所は、映画の最も惨烈なハイライトだ)、特に暴力の塊だったSSのロシュマン大尉(マキシミリアン・シェル)に対して、恨み晴らさでおくべきかといった怨念を書き記していたのだ。ミラーはこの日記に突き動かされ、まだ生きているはずのロシュマン探しに、一切の行動と情熱を注ぎ込むのだ。

そして、第一のインタレストは、言うまでもない、ロシュマンはどこにどうやって生き永らえているのか、ミラーは果たしてそこまで辿りつけるのか、というサスペンスである。このサスペンスは、ある日突然、ミラーが地下鉄のホームから突き落とされたり、いきにり三人組の男に拉致されたり、驚いたことにこの男たちがイスラエルの諜報機関員だったり、ミラーが彼らから猛烈な特訓を強制されたり、その特訓の成果をもって元SS組織へ潜入したりという、畳みかけるようなエスカレーションによって、観る者への金縛りを強めていくのです。

特にこの潜入にあたっての尋問シーンは、静かな重圧感が圧巻といってもいい。ここから、ミラーと恋人ジギー(メアリー・タム)との会話が警察を通してSS側へ漏れ、そのため、ミラーがSS名簿である"オデッサ・ファイル"を盗み出す時に殺し屋と猛烈な死闘を演じなければならなくなる、といったあたり、映画は緊迫の小クライマックスを形成するのです。ミラーは、こうやっていわば半ば巻き込まれる形で、生き残るナチのSS組織へ肉迫していくのです。

しかし、それにしてもと、私たちは第二のインタレストが、心から切り離せなくなる。なぜミラーは直接、利害関係もなければ接触が危険でもあるSSへ、こんなにも憑かれたように近づいていくのだろうか?  内心の何が、彼を突き動かすのだろうか?

ミラーは元々ダルなトップ屋だ。ストリッパーのジギーのヒモにも近い存在だった。戦争もナチも体験の実感はほとんどない。彼が、母から戦時の思い出を聞くシーンがある。たった一場面、その母を演じるのが、かのドイツの名女優マリア・シェル、しかも彼女がまた、唸るくらい見事な名演なのだが、実は、ここが重い伏線であり、やはり母親役はマリア・シェルという大女優以外、誰ひとり演じるわけにゆかなかったのだと、全てが氷解するのは、最後のクライマックスに至ってである。

この一瞬、私たちは初めて、なぜ、戦争も知らないひとりぼっちの若者が、憑かれたように、戦時下のドイツが犯した罪悪、そして今も生き残るナチズムにこだわり続けたのかを、愕然と納得するのです。

このクライマックス、ミラーは初めてロシュマンと対決する。いつも、ぬるぬるした印象のジョン・ボイトは、ミラーが核心に迫るに比例して演技も表情も締まってくるが、更に感嘆させられるのは、このクライマックス、若者に押しつぶされかけながらも、折あらばはね返そうとねばる元ナチ-------その臆病で尊大、傲慢で狡猾、冷酷で陶酔的なふてぶてしさ、しぶとさを驚くべき迫力で演じたマキシミリアン・シェルである。

ある意味で、それはまさに、映画を観る我々までをも、ナチの力の論理で説得してしまいかねない迫力。実は、それだからこそ、今なお生き続けるこの悪に対して、戦争を知らない全ての若者までが、自身の問題として未来への危機感で立ち上がらないと危ないのだと、それをこの作品は、ペーター・ミラーの行動に託して叫ぶのである。

自信は作家を生み出す。「ポセイドン・アドベンチャー」の体験と成功は、ロナルド・ニーム監督を、それまでのソフトでぼてっと緩い仕事からは想像もつかないほどの、引き締まった娯楽映画作家に仕上げていると思います。この作品では、きびきびした運びの仲での、押しつけるようなサスペンスの圧力感が、確信に満ちて本物になっていると思います。

それに撮影の名手オズワルド・モリスが、この作品ではドイツ、オーストリアを中心としたロケーションの、その街や建物にあふれたヨーロッパの質感が、まことに迫真的なのです。「西ドイツ」という感じが、映像全体にあふれている。

もっとも、この"ヨーロッパ"という映像的実感は、「ジャッカルの日」も出色であった。それがなければ、フォーサイスの二作の映画化は成り立たないと言っていいのである。

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