人間に限りなく近づいたロボットの悲運
目次
手塚治作品を踏まえた新たな名作
手塚治虫の代表的な作品である「鉄腕アトム」からのオマージュとして制作されたマンガだけれど、全くのリメイクでなく、浦沢直樹ならではのキャラクターとしてが新たに蘇った作品だと思う。個人的には「ブラック・ジャック」や「ブッダ」ほど読み込んでいない作品のため話がどれくらい似ているのかということはほとんどわからないのだけど、十分に楽しめた。またキャラクターの違いも面白い。もちろんアトムやウランばかりでなく、手塚治虫には完全なロボット然として書かれていたゲジヒトは、浦沢直樹には疲れた中年の刑事として描かれ、話が進むまでロボットということさえわからないくらいだった。“プルートゥ”に破壊される計画に含まれていた7人のロボットの多くが一見ロボットとわからないという展開がいかにもサスペンス風のおもしろさをプラスし、ストーリーから目が離せなかった。
浦沢直樹の絵柄と合致したストーリー
浦沢直樹の作品は絵柄は、初期の頃のなんとなく大友克洋風にも感じられる「パイナップル・アーミー」から、熱血スポーツマンガである「YAWARA!」で少し女の子の可愛らしさに磨きをかけ、「Happy!」で現在の浦沢直樹の絵柄の片鱗が見え出す(竜ケ崎蝶子のふと見せる哀しい表情など)。それが「MONSTER」で確立したような印象を受ける。そしてこの「PLUTO」は、そうやって築き上げられた浦沢直樹ならではの絵柄と相まって、物語の期待度を否応にも盛り上げてくる。表紙を見て、面白くないわけがないだろうというくらいの印象だった。そしてそれは裏切られることなく続く。
手塚キャラの登場のさせ方のうまさ
手塚治虫の「鉄腕アトム」から来ている以上、彼の作り出すキャラクターは多くでてくる(そしてその多くは他の作品にも共通して出てくることが多い)。その登場のさせ方がうまく、ストーリーは盛り上がっているけれど尚且つその人物のことなど想像もしていない時や逆にまさに想像しているときに、きちんとでてくるのだ。その小気味よさをはずさないところはさすがだと思うし、その面白さは映画にも通じる。例えばドラマ「24」(映画ではないけれど)では、死んだと思っていた登場人物がまったく予想もしていないところで出てきたり、もしかしてと思っていないところで意外な人物がでてきたりと、視聴者を退屈させない。浦沢直樹が書く「PLUTO」もそのようにいい意味の裏切りとその逆が交差していて、読み手を飽きさせない魅力がある。
また浦沢直樹の書く手塚キャラの可愛らしさもその魅力に拍車をかけている。1巻の最後でようやく出て来たアトムの素直そうで愛らしく尚且つ利発そうな表情は、手塚治虫の描くアトムとはまた別のものではないかと思わせる魅力があった。ウランもやんちゃさはそのまま受け継ぎながらもかわいらしく、浦沢直樹らしいうまさがよくでていたように思う。
旧式だろうと最新式だろうと
このマンガには主に進化しすぎたロボットの悲運がメインに書かれている。人間たちはロボットがここまで進化していることにさえ気づいていない鈍感さで彼らを軽く扱い、魂のない機械扱いをしている。どこの時代にも旧態依然とした人間はいるものだけど、ロボットにもそれなりの仕事をしてもらって責任を与えている以上、あまりにも軽はずみは態度は昔の奴隷制度を見るような不快感がある。そして最新のロボットはその不快感さえ感じているのに、いかにも感じていない振りをするという行為は、並の人間でもできないような高等な行為だと思う。
1巻の初めに出てくる殺された巡査ロボットの妻は、お茶の楽しみはわからなくとも悲しみということを理解していた。悲しいことを含む衝撃的な記憶を消そうかと申し出たゲジヒトに対し、「彼との思い出を消さないで」とつぶやくのだ。人間が旧式だと判断しているロボットがこのようなことをいうことを人間たちはわかっているのだろうか。そしてゲジヒトが殺されたとき、彼の妻も同じことを言うのだ、「彼との思い出を消さないで」と。妻はゲジヒトと同じような最新式のロボットとであり見た目は人間と判別がつかない。一方先ほどの巡査ロボットの妻はいかにもロボットで旧式だ。この2人が最愛の者をなくしたときの感情と気持ちが同じであることを人間は知っているのだろうか。ヘラクレスとゲジヒトが海で話した「俺たちは進化しているよな」という言葉がここで効いてくるように思う。そしてそのことを理解している人間は少ない。
ゲジヒトが犯した殺人
兄を殺されたハースはロボットをも殺すことのできるゼロニウム弾を手にゲジヒトを狙う。ゲジヒトに殺されたという兄の詳細は描かれていないが、おそらくロボットの幼児を殺すという異常者だったことを匂わせている。そしてその毒牙にかかったのがゲジヒトの子供だった。愛する子供を殺された(ロボットであるがゆえにその遺体は残酷だ)怒りがゲジヒトを狂わせその気持ちが、人間を殺せないというプログラムを凌駕した。ただ人間を殺したというわけでなく、子供を殺された怒りが根底にあるのだ。そしてそれを人間は理解しない。ロボットがそんな高等な感情をもつはずがないというわけだ。だけど彼らは進歩している。だからこそここまで辿りついてしまったのだ。
人間がロボットを殺しても罪にならず、ロボットが人間を殺すと罪になるという一方的な法は、ここまでロボットが進化した世界ではいささかナンセンスなものだろう。そのあたりの人間の感覚がおいついていないのがもしかしたら究極にリアルなのかもしれない。
利用されたプルートゥと哀しい星に生まれてしまったアトム
サハドは結局善良なロボットだったのに、天馬博士が作り出したといってもいいアブラーによって作りだされたプルートゥとしてモンスターと化してしまった。でもここで少し疑問なのが、彼にそれほどの強さを感じないということだ。ブランドやヘラクレスを殺し、自らも重傷を受けながらもエプシロンまでも倒し、そのパワーと強さがどうしても感じられないのが少し残念なところだ。もともとの人口知能は善良でもここまで悪のロボットになってしまった以上、もう少しその絶対的な強さを見てみたかったというのがある(「HUNTER×HUNTERの蟻の王や、「DRAGON BALL」のフリーザのように)。善と悪がせめぎ合っていたからだという解釈もあるけれど、個人的には「助けてくれ」と懇願するサハドと凶悪なプルートゥの魂のジレンマも深く見たかったところだ。
しかしアトムを目覚めさせるために、死の寸前のゲジヒトのイメージを注入したところは秀逸だった。怒りと復讐に我を忘れたかのようなアトムの元にお茶の水博士が駆け寄り、アトムが「もう大丈夫」と言ったところは胸が痛くなる場面だった。アトムは今までどれほどのものを飲み込んできたのかが想像できる上、そしてそれはこれからも続く予感を感じさせる。あの場面は好きな場面のひとつだ。
地球を救ったとはいえ
結果的に地球を救ったとはいえ、一時的なことであることは誰の目にも明らかだ。この危機を乗り越えてもすぐまた別の危機がくる。そしてそれは人間自らのせいでくるのだ。そして相変わらず戦争を繰り返し、いくらアトムのようなロボットが彼らを救っても無駄なのではないだろうか。復讐はなにも生まない。そう理解したロボットが一番辛い目を見るのかもしれない。そのような哀しさを感じさせるラストだった。
このマンガは読んで良かったと思える数少ないマンガのひとつだ。もちろん所々突っ込みたいところも無きにしもあらずだけど(例えば一番最後の死んだロボットが全部星空に浮かぶ描き方はいささか古すぎるのではないか、とか)、それでも十分に読む価値があるマンガだった。結構色々マンガは色々読んだと思っていたけれど、まだこのような傑作が眠っていることにワクワクさせられ、他ももっと読んでみようと思えただけでもうれしい。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)