あまりにも有名な古典の名作
突拍子もない設定にもかかわらず
主人公グレーゴル・ザムザが“気がかりな夢から目を覚ますと”自分が巨大な虫になっていることを発見するという有名なこの始まり方は、多くの読者をこの時点で読むか読まないか選別することになるのではないかとおもうくらい、突拍子もない始まり方だ。しかし当の本人はことの大きさを理解しているのかいないのか、時折自分の体の動きや支配人の態度に“面白さ”や“微笑み”をもらしたりしている。この外見の深刻さと本人の意識の違いがこの小説の魅力を際立てているところでもある。
グレーゴルがなぜ虫になったのか、その理由や過程などはまったく描写されていない。ただ朝起きたら虫になっていたというところから始まるのだから興味深い。それはまるで「最終兵器彼女」のちせがいきなり冒頭から体中から銃器を突き出した異形をし、どうしてその体になったのか説明が全くないのを思い出させた(もしかしたら高橋しんはここからヒントを得たのだろうか)。とはいえ、そういった余計は説明を省いてそこからの生活の描写から始まるのは個人的には好きな脚本だ。だからこそかもしれないが、ある意味メタファーばかりにも思えるこの物語に冒頭からどんどん引き込まれることになる。
グレーゴルが変身した“虫”と訳されている言葉は、ドイツ語では“毒虫・害虫”という言葉に当たるらしい。変身したグレーゴルは毒がある風には見えないけれど、害虫であることは間違いないだろう。私が想像したのは、外国の映画で時々でてくる甲虫のようなゴキブリだ。背は硬く、足はひ弱で、腹には段々があるところなどはそれを思わせる。そしてそれは日本のゴキブリのようではなかったことに正直ホッとした。
私がカフカに出会ったとき
初めて「変身」を読んだのは確か中学のときで、当然のことながらあまり意味が分からなくて最後まで読んでいないと思う。その後、年を取ってから村上春樹の「海辺のカフカ」を読み、その時にカフカの「変身」が読めていないことを思い出し(「海辺のカフカ」の主人公の少年カフカに助言する役割の少年はカラスと言う。その作中、カフカとはチェコ語でカラスという意味だからカフカ自身がそう名づけたのだけど、厳密にはカフカとはコクマルガラスというカラスの中でも比較的小さいものを言うらしい。だから日本人が想像するカラスがカフカではないということその時知ったことを今思い出した)、しばらくたってから手にとってみた。そして読み始めた感想は前述したように衝撃的なものであったので、やはり小説には出会うべくして出会うような年と機会があるのものなのだなと実感した。
この「変身」を書いたフランツ・カフカは本名だからカラスがどうとかそういうことは関係ないけれど、カフカという言葉でカラスを思い浮かべる人は多いと思う。
余談だけど、村上春樹の小説で出て来たから読んでみようと思った小説は少なくない。「グレートギャツビー」しかり「車輪の下」しかり、そしてこのカフカという人物が書いた小説しかりだ。
カフカの小説のイメージ
この淡々と現実に起こったことのみを描くところとか、虫になってしまった彼自身が稼ぎ頭であって養うべき家族がいるしがらみとか、その貧乏さとかを読んで同じようなイメージだと感じたのは、ドストエフスキーの「罪と罰)だった。あの小説も底の底のような貧乏で暮らしている学生の生活の描写が多かったのだけど、あの淡々とした描写の仕方がこの「変身」と似ているように思ったのだ。実際調べてみるとカフカはドストエフスキーを「文学的血族」と考えていたという。だからドストエフスキーの表現に多少なりとも似通ってしまうのは無理もないことかもしれない。
この「変身」に出てくる家族は、グレーゴルに献身的な妹を除き、他の家族たちはそれほどの愛情を虫になってしまったグレーゴルには示さない。母親は努力しているのかもしれないが、あの神経に障る行動はグレーゴルにとっては逆効果だったろう。そういう展開になると作者自身も不遇な家族構成だったのかもと思うのだけれど、少し調べる限りでは料理する人も乳母もいるしで、そうでもなかったことがうかがいしれる。
にもかかわらずこのような救いようのない後味の悪い小説を書くということは、ただ卓越した想像力だけでなく、ある意味歪んだ願望もあったのかもしれない。こういう研究をしている人は数多くあり(もちろん「罪と罰」でも巻末にドストエフスキーを研究している人の様々な物語の捉え方が書かれていた)、そういう人たちは私が感じるよりももっと専門的に色々分かるところがあるのだと思う。だけど、あらゆる見識を除いて私のような素人が読んでもこの本は意味深いものだ。数々のメタファーであることをメタファーと考えず、そのまま捉えることも大事なような気がするからだ。
この描写の意味はどうとか、この場面が後々もたらす意味はどうとか考えるのは文学的な研究者に任せておいて、ストーリーをそのまま楽しむのも大事だと思う。
ザムザ家の人々
虫になったグレーゴルに対して、献身的に世話をする妹と混乱しながらも愛を示そうとしながらいつも倒れてしまう(面倒くさく腹立たしい)母親に対し、害虫に対しての汚らわしさを隠そうとしない父親が、グレーゴルの周りを取り巻いている。グレーゴル自身、虫になってしまってから人間らしさをどんどん失っていく中、妹だけはその世話ができることを誇りにさえ思っている様子がうかがえる。しかしそこは兄に対しての情愛でなく、自身のアイデンティティを主張する絶好の場所だという風にも感じられる。だから本心からグレーゴルのことを心配して愛している家族はいないに等しい。これはグレーゴルがどんどん思考が“虫”よりになっていっているからこそまだ救われるが、人間の心を残したままだとどれほど傷ついたのだろうか(とはいえ、時折見せる正気になった様は、彼が十分傷ついていることが感じられるが)。そしてこの心境変化の描写もまた「最終兵器彼女」のちせを思い出させる。
音楽的才能がある妹を音楽学校に入れてやる計画を立てていたグレーゴル、親の借金を返すために働きたくもない場所で支配人や社長の機嫌を取りながら働いていたグレーゴル。そういった彼の今までの尽力に対しての感謝はまるでない。このあたりからこの物語が後味悪いもので終わるだろうということは予測がついていた。
現実的ながらも哀しいラスト
家族のために身を粉にして働いてきたグレーゴルに対して家族の皆が下した判断はあまりにも非情なものだった。虫になってしまったグレーゴルとはもはやコミュニケーションもとれないし、その存在ゆえ下宿の人たちも返してしまい(下宿人の割りに態度が大きく感じたのは、文化の違いなのか)、生活もままならないとなればグレーゴルを放りだすしかないと決心したのは口火を切ったのは皮肉にも一番グレーゴルの面倒を見てきた妹だった。だけどそこは家族のために憎まれ役を買ってでなければならないという痛々しい決心も見えなくもない。家族はその後死んでしまったグレーゴルに対してさほどの哀しみも悔やみもみせない。残っているのはただ自分たちが大変な思いをして彼の面倒を見たという自負のみである。ここは人間としてのエゴとしてはリアルなものなのかもしれないが(貧乏な時代だからこそ余計に)、グレーゴルがグレーゴルであったときにしてもらった感謝の気持ちは少しくらい見せてくれればこれほど後味悪いラストにはならなかったと思う。
カフカの思いいれが感じられる作品
カフカは出版の際、この本のカバーデザインを担当する人に「昆虫そのものを描かないように」などと色々な注文をつけていたという。それは読者がカバーを見てグレーゴルが変身した虫に固定概念をつけて欲しくないという作者の矜持だと思う。個人的にはこのようなエピソードは大好きだ。例えば声優が、担当したキャラクターに既存のイメージをつけないようにと自身の写真を極力ださないというようなこだわりもそれにあたる。
若くして亡くなった彼だけど、まだ他にも著名な作品はある。そして今個人的には古典ブームでもある(最近読んだのは「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」そしてカフカの「流刑地にて」)。なのでもう一度「流刑地にて」を読み返してみて、カフカの境地を探ってみたいと思う。
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