大胆なカットで上手く纏めた意欲的ダイジェスト 平和とは何かを正面から問う!
目次
今こそ見るべき? 中東出身のテロリストだった主人公!
本作機動戦士ガンダム00の1stシーズン放送は2007年、このダイジェスト版は2009年に発売されている。
主人公刹那・F・セイエイは架空の国家クルジス共和国で生まれ、ヒロインマリナ・イスマイールの祖国アザディスタン王国との戦争末期に少年兵として戦った。
彼はアリー・アル・サーシェスに扇動されて、神の名のもとに両親を含む多くの人の命を奪う。
しかし、サーシェスは敬虔な宗教指導者ではなく、単なる自己実現のために神の名を利用していただけだった。
オリジナルテレビシリーズより戦争根絶を問う姿勢が明確
2001年のアメリカ同時多発テロ以来、我々はその言葉を聞かない日がない、という程テロリズムというものと共にある。
世界は今もテロや紛争に溢れている。
無論、現実のテロリズムは本作に描かれているものより、更に複雑でハードで、陰惨なものだろうが、そこはアニメーションという媒体故に感受しよう。
刹那とマリナは、そのテロリズムや紛争を超えて、世界平和=争いのない世界を目指す。
こんなストレートに戦争根絶を目指したロボットアニメ作品は、古今東西で皆無だと思う。
戦争を扱うアニメであれば、一度や二度は平和という言葉を語るだろうが、彼らが言う平和とは、今行われている戦争の終結を言っているに過ぎない。
本作は違う。
どうすれば、世界から、人類の歴史から、紛争や戦争という言葉を一掃できるか、それを問いかけているのだ。
ガンダムSEEDのキラ・ヤマトのような不殺というわかりやすい自己のスタイルの確立を望んでいるのではない。
刹那は戦闘を行うものを圧倒的武力で倒し、戦争を根絶する、というソレスタルビーイングに賛同して戦いに参加する。
ダイジェスト化して枝葉が無い故に、そのテーマが非常にわかりやすく仕上がっている。
無慈悲な戦闘と一般市民代表の沙慈
世界を敵にしても戦争根絶を目指す刹那だが、沙慈とルイスの話を聞いて世界はまだ戦争根絶に向き合っていない、と実感する。
しかし、その一般市民代表である沙慈とルイスも戦争に巻き込まれていく。
ルイスはトリニティチームの凶行で両親と左手を失い、沙慈も姉を亡くす(このダイジェストでは姉絹代の死は語られていないが…)。
前半で戦争を他人事、絵空事と受け取っていた彼等もまた、その闇から逃れることはできないのだ。
その構図は非常に分かりやすい。
要するに、今現在、戦争は他国の事、と思っている日本国民も、いつその劫火に巻き込まれるかはわからない、というストレートなメッセージだ。
しかし、ルイスも沙慈も、自分たちが受けた被害に悲しみこそすれ、では戦争を無くそう、という動きを取らない。
どうすれば、人類は戦争根絶という目標に向き合う事ができるのだろうか。
大胆なカット、賛否もあるが私はその勇気を評価したい
1stシーズン25話を90分に濃縮しているので、さすがに切って切って切りまくらないと収まらない。
そんなわけでグラハム麾下のフラッグ隊の活躍や、コーラサワーの雄姿(?)とマネキンとの交流、超人機関技術研究所のエピソードなども思い切ってカットされている。
外部の人間はおろか、ソレスタルビーイング内の人間もほとんど存在しただけのような扱いになっていて、スメラギの苦悩やフェルトとロックオンの触れ合いも語られない。
明確に枝葉とわかるエピソードはともかく、誰もがカットしてほしくなかったのはリヒティとクリスの最後だろう。
しかし、それはそれで仕方ない、というよりは非常によくまとまっていると私は思う。
それぞれのキャラの名場面集として仕上げることもできたであろうが、それをしなかったのは、主軸である戦争根絶を問い続ける、というテーマを際立たせるためだ。
残念ながら、そのテーマに対してはリヒティ、絹江、マネキンらは枝葉でしかない。
人気キャラグラハムですらも、というより最も彼こそが、本作のテーマと関係が無いかもしれない。
彼は憎しみではなく、同等の敵としてのガンダムにこだわっている。
命のやり取りをしているのだが、ある意味スポーツ的ですらある。
2ndシーズン以降、ミスターブシドーと名乗るのはそんな彼の純粋な気持ちの表れかもしれない。
そんなわけで、彼はこのダイジェスト版であまり活躍しない。
私も彼のキャラクターは愛しているので惜しい気持ちはあるが、しかし、そのブレなさを貫いたスタッフに惜しみない称賛を送りたい。
リボンズの企みが効率的にクローズアップされている
冒頭から存在しない神の名のもとに戦う意味がどこにあるのか、と問う刹那。
そのような個々の想いを踏みにじって、ただ征服しようとするリボンズを最初から描くことで、その理不尽な欲望がわかりやすくクローズアップされている。
彼こそが刹那が打倒すべきと思っている世界の歪みなのだ、という事がひしひしと伝わってくる。
オリジナルのテレビシリーズでは前半は謎の男という印象が強かったが、本作では最初から神を名乗る黒幕として扱われていて、物語をシンプルにしている。
何度見ても泣かせるエンディング
平和のために、争いが無い世界のために何ができるのか、
ロックオンは散り、刹那も傷ついていく。
自分の親を殺して生きてきた刹那は、世界が変わるためならいつでも自分の命を投げ出してもいいという覚悟でいる。
自分の家族を殺したKPSAに刹那が所属していたと知り、銃を向けるロックオン。
その彼に世界を変えてくれるなら自分を殺してもいい、と告げる刹那。
彼は常に自分が無意味な殺人を行ってきたことを知っており、いつその裁きが下ってもおかしくないと思っていた。
しかし、最終決戦に挑む際のラッセの言葉に驚く刹那。
ソレスタルビーイングは存在することに意味がある、という言葉は刹那にある気づきを与える。
これまでは行動することに意義を見出してきた彼だったが、もはや世界に認知された以上、手段がどうであれ、戦争根絶を唱える自分たちは生きているだけで価値があるのだ。
それは常に生死をかけて生きて来た刹那にとって衝撃的な言葉だっただろう。
無論、どの人間も生きていることに価値がある。
しかし、そのような一般論ではなく、私欲のためでない戦争根絶を目指す、と宣言したソレスタルビーイングとして生きていることは、常に平和とは何かを語るきっかけを生むのだ。
人間は日々の生活に紛れて、環境を改めることを良しとしない。
もちろん戦争は誰も好まない、誰もが平和を愛している、そのはずなのに、そのために何をすべきか、という話になると誰もが口を閉ざす。
世界平和を目指そう、という人がいれば、それはできない、それは難しい、と誰もが言う。
言われなくても難しいことは誰だってわかっている。しかし目指さなければそれは絶対に来ないのだ。
良いとわかっているのなら、そうだね、そのためには何をしたらいいだろう、という議論を始めるべきなのに、方法が無いとか、とりあえず今日の仕事をかたずけてからからゆっくり考えよう、と人は言う。
そしてその人たちは確実に平和のことなど考えない。
彼らが考えるのは、次の休みにどこに出かけるか、どこのレストランが美味しいか、そんなことだけだ。
刹那とマリナは日々、どうすれば戦争を根絶できるのか、と自分と世界に問いかけている。
刹那は戦いによって、マリナは不戦主義と愛と話し合いによって、平和を目指す。
それは自分自身の安住の地の平和ではない。
世界と人類の平和なのだ。
マリナは皇女とはいえ、もともとは一般の家庭で育ち音楽を志した一介の市民に過ぎない。
その彼女であればこそ、自国の平和だけにとどまらない、人類の平和を望むことが出来たのだろう。
刹那も冒頭で話したように、無力な少年兵であった。
世俗を知ったうえで、戦争を根絶すべし、と私欲ではなく思う。
その気持ちを共有できる彼らであればこそ、我々の心を打つのだ。
これを書く私も、読んでくれたあなたも、ほんの少しで良い、世界の平和について、何か考えよう。
それが本作のメッセージだ。
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