完全無欠の恋愛ハッピーエンディングアニメ!
∀ガンダムで蘇った富野由悠季
ガンダムの生みの親として知られる富野由悠季は1980年放送の「伝説巨人イデオン」で既に作家として枯れていた、と私はかねてから主張している。
その後、彼はザブングル、ダンバイン、エルガイム、Zガンダム、ガンダムZZとコンセプトは面白くても作品としての仕上がりはイマイチな作品を連発した。
しかし彼は2000年の「∀ガンダム」で蘇った。ガンダムでありながら、19世紀から20世紀初頭を思わせる世界感で意表を突き、ザブングル以降で見られたプロットの破綻や伏線を回収できない不徹底さを感じさせなかった。
最終回「黄金の秋」は敵との決着を描いたうえで、主要なキャラの人間関係もきちんと完結させており、Zガンダムやダンバインのような「あのキャラたちは何のために存在したのか」と思わせることはなかった。私は∀を富野作品の上位に上げる。
本作はそれに継ぐ2002年の作品だ。
彼は本当によみがえったのか。∀は偶然がもたらした奇跡の一作、いわゆるまぐれだったのか、あるいはろうそくが消える前の最後の輝きだったのか?
それが問われたのが本作品OVERMANキングゲイナーだ。
そしてその問いに富野氏は勝利を持って答えた。
私はこれを良作と評価する。
勝手ながら富野作品に順位をつけるなら、1位イデオン、2位1stガンダム、3位を本作か∀かどちらにしようか、と迷うほどの出来だ。
新しい世界感
本作はエクソダスという体制側から見れば違法な行為を行う主人公が所属するグループ、生活の自由を要求する民衆、単純な破壊力の大小ではなくオーバースキルという精神に訴えかけるような戦い、主人公がゲームチャンプ、などこれまでの作品には無い新しい世界を描いた。
∀はガンダムであったが故に日常が戦争であったが、前述したように世界感はずいぶんと柔らかかった。本作ではさらにそれを推し進めている。
本作の評価として、エクソダスが未完であり、途中から脇道にそれた、尻すぼみ作品、というものを目にする。
しかし私はそうは思わない。
エクソダスは世界感の構築に必要なアイテムであって、テーマではない。
一つの船、特定の環境に大勢の人々をぶち込んで、共通認識を作る、という富野流の作品作り手法である。例えるなら、戦争はガンダムの背景であってテーマではない。バイストンウェルも三日の掟も同様だ。
特に本作は新しい社会を作ることに完全に成功している。
都市が丸ごとエクソダスを行うという発想で、登場人物全員に共通認識が生まれ、しかしエクソダスに対する個々の想いは異なるが故に、人間ドラマが描ける。
ある意味ザブングル以降はこの共通認識が不明確だったために話のばらつきが目立ったのだ。
ガンダムでは戦争に関与しない人は出てこないし、イデオンでもイデに影響されない人は出てこない。
しかしザブングルでは命を懸けてまでイノセントと闘う理由がない人も多く、戦闘根拠が今一つ不明瞭だし、ダンバインでは自国の利益を求める政治家たち、巻き込まれた現状の中で単なる生存を求める人々、自己実現、憎しみ、など個々の背景がばらばらだ。
Zガンダムにおいては、ティターンズ、エウーゴ、アクシズ、シロッコ派、それぞれが求めるものはばらばらで、共通手段である戦闘でのみ各グループは接触していた。
そのような価値観の違いは上手く書ききれれば面白いテーマではあるだろうが、どうも富野氏には向いていないように思う。
例えばZガンダムのカツ・コバヤシは何のために戦闘に参加したのか、そしてその役割の中で何を実現し、何を得られなかったのか、10秒で説明できる人がいるだろうか?
彼は単に軟弱化したアムロへの反抗心でエウーゴに参加した。その動機はアムロの復活で達成されたはずで、そこで戦闘を離脱しても良かったのだ。
しかし自分だって戦えるという功名心や、惰性でエウーゴに留まったため、カミーユへの対抗心、サラ・ザビアロフへの恋愛感情など、不必要な感情に振り回され、何も得るものは無く無駄に死んでいく。
最終戦闘まで参加するのなら、ティターンズ許すまじとか、人類の変革を望むとか、何か大義を与えてやるべきだったのだ。
登場人物が多くそれぞれの立場や主張がわからない、これが富野氏の失敗パターンだが、それを本作はエクソダスという共通認識を持たせることで上手く防いだ。
エクソダスを推し進めるヤーパンの天井の大多数の人々、それに巻き込まれた主人公、阻止しようとする人々、見事に各個人の背景が作られている。
では、と尻すぼみ主張派は言うだろう。エクソダスなんて関係ない、というシンシアが中盤以降に出てきてかなりの立ち位置を持つことはやはり脱線ではないか、と。
しかし私は言う。
エクソダスは背景であり、本作のテーマは主人公ゲイナーの成長と、彼とサラの恋愛物語だ、と。
その2点を語る上でシンシアは重要な役割を果たす。
それ故本作は全く脱線していないし、単なる背景であるエクソダスが完遂していないことなど何一つ問題ではない。
以降ではゲイナーの成長と恋愛について語ろう。
ゲイナーの成長
ゲイナーの成長は概ね以下のような形で書き表される。
両親を殺されて引きこもり、ゲームは上達(限られた空間のみでの栄達)、無理やりリアル社会へ引き戻されエクソダスに巻き込まれる。
戦闘ではゲームで鍛えたスキルが役に立つが現実社会ではそれは僅かな局面に過ぎない。徐々にクラスメイトやヤーパンの天井の人々に認められていく。
戦闘に消極的だった序盤から積極攻撃に転じたこともあり、自信を付けた表れでもある。
ゲインは序盤で彼を騙したことで怒りを買うが、徐々にデキるアニキとして接するようになる。しかし彼は単にかっこいい大人ではないとも知る。
女性にしばしば心を奪われるし、認知していなかった子供がいたりすることなどから、大人になることが単純にスキルの上昇や強さの獲得ではないことも知る。
それまでは家族の輪の中にいた彼が、他人と接することで更に多くを学ぶ。
アデットとの同居、サラを中心とするベローとの友人関係、時折垣間見るママドゥとリュボフの恋愛、幼いのに凛としたアナ姫の存在、なども些細なようで大事な要素だ。
ガウリが自分の両親を殺したと知り、戸惑うが、これを受け入れることを優しさと呼んで耐える。
ここまででも面白いが、本作が特別に用意したのはオーバースキルによる深層心理の吐露だ。
プラネッタの伝心はサラへの愛を告げる意味でゲイナーは恥をかきつつもその後の恋愛の発展に変えていったが、デスネッタの不安、リオンネッターの恐怖の具現化、などは強力な心理攻撃である一方、ゲイナーにとっては自己の再確認更にもなった。
そのような経験を踏まえて、彼はみんなの幸せのためにオーバーデビルを倒しエクソダスを成し遂げる、とサラに告げる。
普通のアニメならここまでで成長完成なのだが、本作は更に追い込む。
オーバーデビルに取り込まれたせいなのか、心が凍ったゲイナーはアニキ分であったゲインを露骨に見下し、愛するサラには自分のゲームキングの力を利用するだけの卑劣な女と罵る。
これをクライマックスにやるというのが凄い。
ある意味前述のゲイナーの決意は、冒頭は被害者であった彼がエクソダスの共犯者に昇格したという意識が言わせたものだった。
サラの望みとみんなの幸せ、それは立派だが、ゲイナーの優等生の部分が発現したセリフだ。
真の成長とは自分の行動の首謀者になることだ。
そこでオーバーデビルに取り込まれてからの皆に悪態をつく演出が生きる。
人間は生きている中で幾つかの失敗を犯す。その羞恥や周囲の蔑みを超えて成長していく時、建前ではない自分自身を獲得するのだ。
そしてその一歩を踏み出した時、やらかしてしまった自分を受け入れてくれる世界に感謝する。
両親を殺したガウリを一方的に許すのではなく許し合う、それが大人だ。
明確なラブストーリー
ゲイナーの成長とともに語られるのがサラとの恋愛だ。
第一話ではゲイナーはなんとなくサラにあこがれている程度だろうか。この回ではアデットとアナ姫の方が目立っている。
しかし、自分の過去を語り、守り守られ、接点が増えていく中で、二人は次第に意識しあうようになる。
従来の富野作品同様、本作も女性キャラは多いものの、これは明確なシングルヒロインの物語だ。
中盤から出てくるシンシア(声だけは第一話から登場しているが)に対しても、最初はデートという言葉にときめくゲイナーだが、三角形に陥ることなく、それぞれが孤独なときに唯一心の支えになってくれた大切なゲーム仲間としての関係に落ち着く。
この時既にゲイナーはサラがオンリーワンだと気づいている。
17話の戦闘の最中に行う1分半に及ぶ告白はそれを如実に語っている。
この回はラブコメ的面白さで見た人の心に残っているだろうが、ゲイナーは告白を目的とした訳ではない。心を読む敵に対して、その能力をオーバーフローさせようとした行動が世界中に聞こえていただけだ。単に勝利をつかむための思考の洪水であれば、食べたいもの、好きな景色、両親との記憶、その他何でも良かったはずだ。
だが彼はサラへの想いをチョイスした。その時彼が自信をもって途切れることなく繰り出せる思考がこれだったのだろう。いわゆる寝ても覚めても彼女の事を考えている、ということだ。
そしてこの記憶は最終話でオーバーフリーズしたサラを目覚めさせる。
サラとしては、ひたむきにシンシアを助けようとするゲイナーの優しさ、ガウリがゲイナーの両親を殺したと知ったこと、なども恋愛感情を後押ししたのだろう。
そして富野作品で最高の恋愛ハッピーエンディング
25話冒頭でサラが「愛してるよ、愛してるから」と繰り返し、ゲイナーの無事を祈るシーンは素直に感動する。
ここで既に二人は出来上がっているようだが、ドラマはもう一つ試練を用意する。
オーバーフリーズして心を無くしたゲイナーから冷たい言葉を投げかけられ、自信を無くすサラ。
拒まれることが辛いのは誰でも同じだが、ゲイナーの方が自分に関心を示して来るのがこれまでの流れであったのだから尚更に辛い。
そしてそのサラを励ますのは意外にもリュボフ、という展開も泣ける。
例え相手から拒まれようと、雨のようにブリザードのように与えるのが愛、このセリフにサラは声を出して泣く。こんな乙女なセリフが言えるのは彼女以外にいない。
結局本作は完全なる恋愛アニメだったのだ。
エクソダスも、オーバースキルも、シベ鉄も、五賢人も、全て二人のラブストーリーの背景でしかない。
そう思えば、最後の試練を超えて、旅の障害を取り除き、手を繋ぐ二人のエンディングは富野作品で他に類を見ない完全なるハッピーエンディングだろう。
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