やっぱり面白い伊良部シリーズ - イン・ザ・プールの感想

理解が深まる小説レビューサイト

小説レビュー数 3,368件

イン・ザ・プール

4.134.13
文章力
4.17
ストーリー
4.33
キャラクター
4.50
設定
4.00
演出
4.00
感想数
4
読んだ人
12

やっぱり面白い伊良部シリーズ

4.04.0
文章力
4.0
ストーリー
4.0
キャラクター
4.0
設定
4.0
演出
4.0

目次

すべての短編がリアル

この短編集「イン・ザ・プール」は全部で5つの短編が収められている。それらすべての物語に共通して出てくるのは精神科医伊良部である。子供のまま大きくなったような伊良部に患者たちはいつも振り回されている。その100%自分のことしか考えていない自己中心性は、恐らく子供は皆そうであるのかもしれないが大人となれば話は違う。そのような子供の心をもったまま大人になった伊良部は、意外にも精神に異常をきたした患者たちに良い効果を与える。もちろんそれは本人の意図するところではないのだけど、意図せずやった行動やセリフが患者たちの心を溶きほぐしている様が、読み手としても実感として感じることができるリアルさがこの小説の魅力だと思う。
5つの短編には5つの症例を持つ患者が伊良部の元に訪れる。2話目以外は(その理由は私が女性というだけだ。実感はできないけれど、大変なんだろうということは痛々しいほどよくわかる)、その症例はとても身近なものだ。そして多かれ少なかれ誰でも感じたものであるだと思う。そういうことが緻密に描写されることで、それらの主人公たちに大いに感情移入してしまうのだ。

「イン・ザ・プール」

タイトルにもなっているこの物語は、文字通りプールに通うこと、転じて泳ぐことに対して中毒のようになってしまっている主人公を描いている。泳ぐといういかにも健康そうなこの行為でも中毒というのものがあるのだというのがまず驚きだった。中毒といえば、数々の中毒症状および禁断症状について詳しく書いている中島らもの著書でもこういう印象的な文章があった。「人は誰でもなにかしらの中毒である」というようなものだ。一言一句覚えているわけではないけど、ざっくり言うとそんな感じだったと思う。アルコール中毒といえば中毒としては分かりやすいけれど、マラソン中毒というものもある。走り続けることによってエンドルフィンという脳内麻薬が分泌されるというものだ。それを求めて走り続けるのだから、ぱっと見は健康そうな趣味に見えても中毒症状なんですよ、という話だった。そういう見方に衝撃を受けたものだったけど、「イン・ザ・プール」でも伊良部が同じようなことを言っていた。伊良部は依存症という表現だったけれど、言っていることは同じだった。人は誰でもなにかに依存(中毒)している。それを認めてしまうのは勇気がいるけれど、そういうことなのだと思う。そして伊良部の「大丈夫、そのうち飽きるから」というセリフ。依存なり中毒なり、自分がそうなってしまったと認めるのは恐ろしいし勇気がいるものだ。どうしようと思ったときのこのセリフに主人公である大森どれだけ救われただろう。
もちろん飽きるというのは伊良部の弁であり飽きない人もいるだろう。だけど、こののんきさ加減はなにかしら人をほっとさせる。この力を抜いてくれるのがこの伊良部シリーズの魅力でもある。

「フレンズ」

高校生の雄太はケータイが手放せない。手放すと手が禁断症状のように震えるため親に伊良部医院を紹介され通うことになる。個人的にはこの高校生の話が一番キツかった。私が高校生の時にはもちろんケータイなどなかったのだけど、この「自分が知らないところでみんな楽しいことをしているのではないか」とか「自分がいないところで皆私の悪口をいっているんじゃないか」とか、そういうことは誰でも考えたことがあると思う。思春期なら特にそのような思いが強く、仲間はずれにされることをカッコわるく思ったり、だから好きでもない相手とつるんだりというあの必死さが、手に取るように分かるからだ。
私もそういう観念に縛られたことがある。でも私と雄太と違うのは、私は雄太ほど友達とつるむことができなかったし、あちこちのパーティに参加するほどアクティブになることができなかったことだ。結果彼は消耗しつくし、私は友達がそれほど出来なかった。違いはあるけれど、その誰とも連絡をとれない焦燥感、誰もが自分を見て笑っているような感じはよくわかる。だからこそ彼はケータイ中毒になってしまったのだろう。
それにしてもバイト代をはたいてCDを買い、友人のためにダビングし、カラオケで受けを狙うために最新曲を覚えと、なんと涙ぐましい努力なのか。今どきの高校生はこんなことをしないといけないのか。過去にいじめられた記憶がそうさせるのか。なんともつらい話である。
一人でいい、一人がいいと実感できるのはこの年では無理なのかもしれないけど、絶対そうわかってほしい。自分を偽ってまで誰かと一緒にいてもいいことがないということを、最後伊良部のパーティでわかったのかもしれない。希望的観測かもしれないけれど、そうあってほしいと思った話だった。

「いてもたっても」

この話は「フレンズ」と同じくらいつらい。「フレンズ」は自分が高校生の時のつらさで、この「いてもたっても」は大人になってからのつらさだからだ。そしてこの物語の主人公義雄は、いわゆる強迫神経症に悩まされている(今は強迫性障害というらしいが。この手の耳障りのためだけに名前を変えるヒューマニズムというのか、そういう感じが私はあまり好きではない)。それは彼が図書館で調べたとおりいわゆる「確認行為の習慣化」である。ここは全体的にコメディ感があるこの短編の中でももっともシリアスに描かれているように感じた。
映画「マッチスティック・メン」でもニコラス・ケイジがその症状に悩まされている様子をうまく演じていた(おまけに彼は潔癖症でもあった。その2つが合わさるだなんて考えるだけで恐ろしい)。出かけるたびに鍵を3回数えてかける。出かけるときの足は右(だったと思う)からといったような、家を出るための様々な決まりがある。それを一つでも違えばだめというのだから、考えるとぞっとする。
とはいえ、誰しも「鍵を閉め忘れたのではないか」「ガスの元栓を締めていないのではないか」と気になって出先から引き返したりした経験はあると思う。私自身もタバコを吸っていた時期、義雄と全く同じ思いを抱いたことがある。出先までもう少しというところで戻ったことも何度もあり、本当にその通りだと思いながら読んだ。義雄が火事を心配するあまり、向かいのタバコ屋のおばさんに「そこのアパートから火が出ていたら教えてくれ」と口走る場面がある。この不安さ加減は本当に分かる。第三者に確認してもらうだけで一気に心配から開放されるのだ。私もそうしはしなかったけど、そうできたらどんなにいいかと思ったことがある。それくらい義雄の気持ちはよくわかった。もちろん彼の症状は私以上で、仕事にさえ支障をきたしている。そこで伊良部が“治療”と称して(恐らく自分がやりたいだけのような感じもあるが)やる様々な出来事が、義雄の張り詰めた気持ちを少なからずとも溶きほぐしていく。病院の塀の向こうに石を投げるところなどハラハラはしたけど一理あるような、案外この人名医なのかもなと思ったりもした。

伊良部シリーズ3部作であるということ、またその映像化

「イン・ザ・プール」は伊良部シリーズの第1作目となる。次に「空中ブランコ」、「町長選挙」と続く。この3部作の表紙はすべて共通しており、左上の赤ちゃんの写真は全部一緒でバックの写真がそれぞれのタイトルに似合ったものになっている。となるとこのぷくぷくとしたかわいらしい赤ちゃんは伊良部のイメージなのか。35才の中年男をこれほどかわいらしい純粋なものに例えるのも不気味だけれど、伊良部の子供のような言動を考えるとブラックユーモア的にありなのかもしれない。
またそれぞれ映像化されているが、舞台の「空中ブランコ」の宮迫は論外として(なぜ宮迫が演技がうまい芸人として通用しているのかがわからない)、一番似合っているのは「イン・ザ・プール」の松尾スズキだろうか(でもあの気持ち悪さは種類が違うような気もするが)。阿部寛も伊良部役をしていたけれど、個人的には伊良部の「色白でデブ」という設定を外してほしくないので、かなり違う感じがする。
とはいえ「町長選挙」も読んだことだし、せっかくなので次は「空中ブランコ」を読んでみたいと思う。

あなたも感想を書いてみませんか?
レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。
会員登録して感想を書く(無料)

他のレビュアーの感想・評価

感想をもっと見る(4件)

関連するタグ

イン・ザ・プールを読んだ人はこんな小説も読んでいます

イン・ザ・プールが好きな人におすすめの小説

ページの先頭へ