日常でありながら非日常な物語
カメラワークのような文章表現
小説の語り手は、一人称にせよ三人称にせよ登場人物だったり、神の眼といわれる神視点からのものと二つに分かれると思っていたけど、この物語の始まり方は、その誰でもないいわばカメラワークのような、映画でいうと、色々な場所や人物をカメラが舐めていくようなそういう不思議な始まり方をする。その視点が登場人物でない以上神の眼になるのかもしれないけれど、すべての文章が現在形で書かれているため、動きながらのような視点を感じさせ、余計にカメラから見るような感じがするのだ。この理由は後で分かることになるのだけど、このような文章は村上春樹の中ではなかったように思う。その不思議は始まり方のせいで物語から眼が離せはしないものの、登場人物の眼から見ていない以上感情移入がしにくい。しかしその分、客観的に物事を見ることはできる。とはいえ映画ならまだしも、このような表現は小説ではデメリットが生じるのではないかと感じたけれど、この小説の雰囲気には妙にこの描写がはまっていた。
村上春樹の文章は、その巧みな表現と描写のおかげで頭にその文章が見事に像を結ぶ。まるで映画を観るように、スムーズに映像化される。だからこそこのような立ち位置からの語りでも、不思議なイメージだけを残し違和感なく書けることができるのかもしれない。
夜が深まるにつれて
この小説はサイズでいうと中編にあたるのではないかと思う。村上春樹の作品でいうと「風の歌を聴け」や「国境の南、太陽の西」くらいの長さだと思う。個人的な好みから言うと、それらの作品と比べたら少し劣るようにも思う。理由は恐らく、現実的にすぎるからかもしれない。ファミリーレストランやラブホテルなど、いままでおよそ村上春樹の作品に出ることもなかったであろう要素であることは意外に関係がなく(それらの現実的要素は彼の独特な雰囲気をもつ文章によって、見事に村上的世界に昇華されている)、あくまでストーリーに関してそう感じる。
主人公の女の子は家族とうまくいっていないうえにすべてに不器用な19才で、恐らく何をするのにもつまずいている。逃げるように(他人を拒絶するように)深夜のファミリーレストランでただ本を読んでいるところに、次々と招かれざる客が前のシートに座り、彼女をそれぞれの世界に連れて行こうとする。と書くとこの主人公の女の子マリが気弱なように感じられるけど、実際は自身の核をしっかりと握り、上目遣いながらも人に対する拒絶感をきちんと出せる人間である。そんな彼女が色々なところに巻き込まれる(という言い方はいささか受動的すぎて若干の違和感はあるけれど)様が、夜が深まるにつれうまく展開していく。
全体的に暗い話でありながらも
「アフターダーク」というタイトルがそう思わせるのか、全体的に暗い印象は拭えない。その上中国人娼婦、それを殴った男、追うマフィアなど、明るい要素はあまり見あたらない。その上、村上春樹の書くマフィアは本当に恐ろしい。色々な本を読んだけど、彼の書く悪の怖さは夢にでるほどだ。その恐ろしさはマフィアだけでなく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のちびとのっぽの2人組とか、「ねじまき鳥クロニクル」の皮剥ぎボリスとか、「1Q84」のタマルの強さと冷静さとか、その怖さをひしひしと感じることができる。この作品にも殴られた中国人娼婦の組織が犯人を追うのだけど、まだ何もしていないのに、彼らの恐ろしさが手に取るようにわかる。偶然、犯人白川の携帯を手にとってしまった高橋は運がなかったとしかいいようがない。高橋が彼らになにかされるというわけではないにせよ、そのような純粋な悪意(それは白川の行為こそそうなのかもしれないが)に一瞬でも触れてしまったときの悪寒というものはなかなか忘れられるものではない。だからこそ高橋もマリを誘って話したかったのかもしれない。
そのような全体的に暗さを漂わせながらも、高橋とマリの会話は軽快で村上春樹らしい言葉に満ちており、この小説で最も読むのが楽しいところでもある。いかにも軽そうな青年である高橋がそのような話し方をするのには若干の違和感がなきにしもあらずだけど、それでもその文章を読むのは楽しい。
「アフターダーク」の中でここだけが、唯一明るい場面なのかもしれない。
PM11:56からAM6:53までの話
この話は深夜の11:56から翌日朝の6:53までに起こった出来事が書かれている。特に深夜のデニーズ(だけでなく、24時間営業をしている場所ならどこでも)は、現実な日常でありながらも非現実な非日常であるような不思議な感じがするものだが、この作品もその非日常、非現実さ加減がよく表されている。特に印象に残っているのが、深夜にゆっくりと街を徘徊している黒のワゴン車を、「深海に生息する、特別な皮膚と器官をもった生き物を思わせる」と表現したことだ。あのゆっくりとした動きと、中がわからないスモーク塗りの車はまさにそう見える。こういう的確なたとえこそ村上春樹の小説を読む楽しみでもある。
マリはこの深夜の間に高橋と話した流れで、中国人娼婦を助け、ラブホテルのマネージャーや従業員と話す。ラブホテルで働く人々がどのような人かということはあまり考えたことはないけれど、脛に傷を持つ人が多いのもありえる話だろう。コオロギやコムギの過去ももうちょっと読みたい気もする。あと白川がシステムエンジニアなのはいいけれど、コオロギのそういった職業に対しての説明があまりといえばあまりのような気がして、ちょっとひどいと思った。
とはいえ、コオロギとコムギの会話はシリアスな状況の中、一種の緩衝材のような役割というか、どこかほっとするところがある。そしてそこは当然だろうけど、コオロギの話す関西弁は違和感がなく安心できた。
マリの姉が眠る場所
物語の最初から終わりまで、マリの姉エリはどこかの場所で眠り続けている。その場所はどこかわからない。現実的には自宅なのだろうけど、意識は別のところにある。その隔離され静かで暗い場所は、どこか「ねじまき鳥クロニクル」のクミコと思われる女性がカティサークを飲んでいた部屋を思わせる。それは“眠り続ける”というキーワードが連想させるのかもしれないが(厳密にはクミコは眠り続けてはいないけれど)、どこかあの暗く高級な部屋を思い浮かべてしまう。
そういえば「ねじまき鳥クロニクル」のクミコの姉も何日も眠り続けては起きという生活をしていた。2人はとても仲の良い姉妹であったけれど(兄のワタヤノボルの存在は置いておいて)、彼女は自殺してしまった。エリはそこまではいっていないけれど、なにかしら精神に異常をきたしているのは確かだろう。
“眠り”や“失踪”、“自殺”といったテーマは村上春樹の作品でよくでてくるものだ。そして“井戸”と同じように、“隔離された部屋(たどり着けない場所)”もよくでてくる。そしてそれらを潜り抜けることによって(正確には潜り抜けられることで)“救済されるもの”と“救済されないもの”にわかれるような気がする。エリがどちらなのかわからないけれど(その代わりに何か背負わされるものがあるとしても)、目覚めはきっと近いのだろう。
エリが眠るところにマリは辿りつくことができたのだろうか。どこかで彼女は壁を通りぬけることができるのだろうか。わからないまま物語は唐突に終わる。
読み終わった後はしばらく呆然というか憮然というか、そういう感じになってしまう。そして多くの人がもう一度読み返すことになると思う。そして私もそうなった。久しぶりに読んだけれど、もう一度読み直してみたいと思う。
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