私も「てれんぱれん」したい!と思えるエッセイ
ポップな写真の表紙が印象的
心惹かれるタイトルと、表紙のポップなデザインに惹かれて借りたこの本。中身を全く読まずに借りたので、エッセイということを知らなかった。タイトルがあまりにも好みだったので、正直「エッセイか…」と残念に思ってしまったのは否めない。しかし読んでいくと、エッセイの焦点が旅と料理という自分好みだったので、楽しく軽く読むことができた。
奥田英朗のエッセイは他に「泳いで帰れ」を読んだことがある。あれはエッセイの焦点が私の苦手なスポーツだったので、面白く読める部分が少なかったことを覚えている。だけどこの本は、船で旅をし(しかも2等客席というのがいい)、港でおいしいものを食べ、街をぶらぶらしてというダラダラ感が心地よく、久しぶりにエッセイも悪くないなと思える作品だった。
ただこういう本を読んでしまうと、旅欲求というか、どこかに出かけたい欲求が高まってしまう。小さい子供を抱えた主婦にはかなり毒かもしれない。とはいえ、時刻表や地図を見て旅先を想像し行ったような気になるのに似ていて、気持ちを遠いところに馳せることができるのは嬉しい。
グルメエッセイとは違う気軽さ
食やその背景、文化といったことを書くエッセイは数多くある。そういうものも私は好きだ。有名どころでは東海林さだおになるだろうか。彼の優れた描写は、旅先や料理、土地の生活そういった匂いまでを感じることができる。あのまったく力の入っていなさそうなイラストも好きだ。何の本かは忘れたけど、九州でさつま揚げをあぶって食べるかそのまま食べるか、生醤油か生姜醤油かいくか、そういうことを真剣にで同行者と論議するところとかかなり良い(私はおかげで近所の商店街で、こちらでは天ぷらと呼ぶさつま揚げを買いに走る羽目になった。あの文章を読んでそれを食べないという選択肢はないと思う)。それはそれでいいし私は好きなのだけど、奥田英朗の書く食べ物の表現にはそれほどの気負いというか、そういうものはあまりないように思える。奥田英朗自身、「まったくグルメではないし、味もあまりわからない」と作中に書いている。だからこそなのかそういう気軽さは、読み手に親しみやすさを感じさせてくれる。
奥田英朗の小説では出てくる食べ物で印象的なのは、焼肉である。「純平、考え直せ」で純平が娑婆の思い出として食べる焼肉、「オリンピックの身代金」で引越し祝いで食べる焼肉、それらはいつも匂いまで感じるくらいおいしそうに思った。この「港町食堂」でも彼は「肉好き」と豪語していた。だからこそ彼の書く焼肉の描写はおいしそうなのだろうと思う。グルメではないかもしれないけど、好きなものをおいしく思ったとおりに書くところは、押し付け的なところがない分こちらも気軽に楽しめる。
全部で6つの旅先話
このエッセイには全部で6つの旅先での話が書かれている。その中でも一番心惹かれたのは「五島列島」だった。「元々旅行も自ら腰をあげず段取りをしてもらって背中を押してもらって初めて動くタイプ」と豪語する作者は、比較的風景や観光名所といったいわゆる風光明媚なところにはなにかしらクールな印象があった。なのにもかかわらず、そんな彼が心を動かされたことがよくわかる文章がこの章には随所にある。無人のビーチ、昼寝している猫、隠れキリシタンの人々が大切にした数々の教会。その全てが私の脳内に鮮やかに浮かび、行ってみたいと心から思った。
奥田英朗はなにか、自然の中で自然に生活すること、お金をかけずに食べるだけ働きあとは遊ぶといったシンプルな生活に憧れをもっているような感じを受ける。前読んだ「泳いで帰れ」にも、そういう文章が時々見られた。だから、島とか田舎とかこそ心を動かされるのかもしれない。
しかし正直、奥田英朗のような売れっ子作家ならどこででも仕事ができるだろう。実際移住しようと思えばできるだろうところが、心から羨ましい。実際エッセイ中でも、移住しようかなと言うようなつぶやきが時々あった。「でもそうなったら絶対仕事しないって、オレ!」といった軽いツッコミが、余計彼に親しみを感じさせる。
五島篇で書かれていた「日本国民よ、五島を見て死ね」と言う言葉は、彼の心からの叫びにも思える。この言葉は一生覚えているような気がした。
エッセイだから感じるシンパシー
気軽に作者の気持ちが書かれるエッセイだからこそ、隣で座ってしゃべっている人に感じるようなシンパシーをよく感じることがある。この本では奥田英朗が岐阜出身だからこそ感じることをつらつらと書いているところがあるが、そこはわかるわかると膝をうった。それは鰻の描写である。関東の蒲焼は一度蒸してから焼くから、ほろほろと柔らかい。この柔らかさがいいのかもしれないが、関西出身にはそれが物足りないのである。私自身関東で生活していた頃にこれは何度も体験した。いくら名店と呼ばれるところにいっても、その不満は残る。その気持ちを上手に表現してくれており、さすが文章のプロだなと実感した。岐阜のとんちゃんもおいしいな、知ってる知ってる、とそのあたりの場面はにやにやしながら読んでいたと思う。
こういうことを感じることができるのがエッセイの良さなんだと、最近気付いた。今までエッセイというと敬遠していたけれど、それは食わず嫌いだったのかもしれない。
各地の名所をバッサリ
この本は6つの旅先のことが書かれているのだけど、全てではないけれど、観光名所と呼ばれているものを結構バッサリと評価している。その文章には何もおもねるところもなく、読んでいて小気味よい。ましてや誰でも、楽しみに観光名所と呼ばれるところに出かけていって、がっかりした経験を持っていると思う(私はそれをがっかり名所と呼ぶ)。しかし時間がたつと、そのがっかりした気持ちも旅先の思い出として昇華される。彼のその文章は私のそういう気持ちを思い出させてくれ、同じ様な気持ちになったのかなとそこでもシンパシーを感じることができた。
「日本三景」それがどうした。そういい切られると、そうだなという気もしてくる。しかも3番目が適当というか、信憑性が薄いだろうという奥田英朗の考えは、今まで考えもしなかった分、なるほどなと思えてなんだか自分の視野も広がったような気がした。
有名な作家なのに限りなく普通
延々とあきもせずウミネコにエサをやっていたり、石垣島に行っては半日くらい海を眺めていたり、若者が夜にコンパだとか言って街に繰り出しても部屋で寝ていたり、決して奥田英朗はアクティブではない。かなりのインドア派だと思う。それがどこか親近感を感じて好きなところだ。また子供に対しても、大人の余裕のような無駄な微笑みを見せず、容赦なくうるさいと書く。子供のしつけに対してはアジアは放任主義だと書くその文章には、皮肉を通りこして静かな怒りを感じさせる。そのあたりの表現がとてもよく、匂わしている怒りも生々しくなくコミカルで、好感がもてた。
また作中で出してくる映画が理解できるのもうれしい。よく小説に映画なり本なり音楽なり出てくることがあるけど、それを知っているとすごく得したような、もっとその物語を理解できるような気がするからだ(もちろん逆に知らなかったりすると、どんなんだろうと調べたり読んだりして世界が広がることもあるのでそれはそれなのだけど)。今までの記憶では、ここまで作中に出てくる映画を知っている作品はあまりないように思う。それは奥田英朗が限りなく普通だからなのかと失礼なことを思ったりしながらも、また親近感を覚えてしまうのだ。
エッセイという分野を、私はあまり評価していなかった。作家の私生活を知ってもしょうがないし、それよりは小説を書いてくれたらいいのにとさえ思っていた。だけどエッセイにはエッセイのいいところがあり(もちろんくだらないエッセイはあまりにも多い。だからこそ今まで読んでいなかった)、それで感じるまるで友達と話すような共感は小説とはまた違った楽しさがある。それに気付くことができたのは、新たな分野を発見したようでとてもうれしい。
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