繊細かつ透明感のあるサリンジャーの傑作 - フラニーとズーイの感想

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フラニーとズーイ

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繊細かつ透明感のあるサリンジャーの傑作

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目次

サリンジャーとの出会い

サリンジャーを初めて読んだのは「ライ麦畑でつかまえて」で、中学生の時だった。ホールデンの気持ちは自分の気持ちを代弁しているように思え、私もまた周りに人たちの行動に見え隠れするエゴやインチキくささに「反吐がでる」などと言っていた(個人的には少し恥ずかしい思い出ではあるけれど、このように影響を受ける子供が多かったからか、この「ライ麦畑でつかまえて」はアメリカの図書館では追放の処置を受けている)。
そこから「ナインストーリーズ」「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「フラニーとゾーイー」と続くわけだけど、なぜか目すべりして読めなかった「大工よ~」以外のその2冊は私の心を捉え、以来愛読書となっている。読む本がないときなどこれらのどれかをカバンにいれておけば間違いないという位置づけである。この位置づけになる本は、私の中ではサリンジャーと村上春樹だけである。そしてそのどれもがボロボロになるまで読まれ、買いなおされ、今に至っている。
あの頃に読んだ本は確実に私の人格形成に影響を与えていると思う。そしてサリンジャーはその主たるものでもある。

訳者 野崎孝と村上春樹との違い

中学の頃に読んだサリンジャーは、野崎孝氏の訳のものだった。翻訳ぽい違和感を感じない自然な文体でありながら、それでいてサリンジャーの独特の文体をうまく訳してくれていると思う。そしていつ読んでも古臭くもなく時代遅れでもなく、新鮮さを感じるというのはすごいことだと感じる。長年彼の訳の本でサリンジャーを読んでいたけど、ある時、村上春樹が「ライ麦畑でつかまえて」と「フラニーとゾーイー」を訳していることを知り、同じ本だけどどう違うのかが読みたくて新たに買い揃えてみた。村上春樹の訳だとそれぞれ「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「フラニーとズーイ」となる。
訳者が違うということはやはりそれなりに全体のイメージに彩りを与えると思う。それぞれの訳や文章の意味合いの捉え方には特徴があり、村上春樹のそれはやはり村上春樹であることは間違いがない。彼の小説特有の少し現実離れしたような美しさにサリンジャーの独特の表現が加わり、また少し違ったサリンジャーを味わうことができた。そういう意味では小説家が翻訳するということは、ある程度イメージが固定されてしまうかもしれない。それは例えば顔の知れた有名人が声優をしたときのようでもある。
とはいえ、村上春樹が訳したということで今まで読まなかった作家に出会うこともある。私にとってはトルーマン・カポーティがそれだった。彼が訳していなかったらきっと読むことがなかったかもしれない。こういう風に好きな作家が翻訳をしてくれるということは新しい作家に出会えるきっかけにもなると思う。
ただ野崎孝氏の訳には長年親しんできたので、「グラース家」が「グラス家」だったり、「ゾーイー」が「ズーイ」だったりそういう細かいところは小さい違和感を感じた。

「ナインストーリーズ」に続くサリンジャーの名作

この小説は、お馴染みのグラス家の末2人の兄妹ズーイとフラニーの物語である。いささか神経症気味の妹と俳優希望ながらシニカルな兄との、時に痛々しささえ感じる脆くナイーヴな会話が印象的である。そこに世話焼きでこうるさい母親の会話が加わり、その2人がうんざりしながらも辛抱強く接する様は、彼らの愛情が決して自己のみに向かうのでなく他者にも向けられていることが分かる。
その2人の会話や、兄バディーからの長い手紙(手紙はよくサリンジャーの小説の中では、大切な位置づけになっていることが多い)そしてその全てがサリンジャー独特の文体と愛情にあふれている。乱暴で強気に話すその奥に、繊細で壊れやすいものがひっそりと隠れているようなその文章は、いつどこで読んでも、またどのページを開いても、読み手を失望させることはない。
グラス家の兄妹は「ナインストーリーズ」では「バナナフィッシュにうってつけの日」に出てくるシーモア、「小舟のほとりで」のブーブー、「コネティカットのひょこひょこおじさん」にはウォルトが死んだ理由など、話のメインであったりスパイスであったりと数多く描かれている。特にシーモアは妻と旅行中にほぼ発作的に自殺をするのだけど、グラス家の兄妹はなにかそういったものを抱えているように感じられる。彼らは現実世界でのエゴやインチキくささに日々打ちのめされており、精神が常にぎりぎりの状況で生きている。そういった描写がこの「フラニーとズーイ」のフラニー、また「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモア、グラス家ではないけれど「ライ麦畑でつかまえての」ホールデンにもよく感じられる。そしてそのような繊細かつ美しい描写こそが、サリンジャーの小説の魅力でもある。

レーンとフラニーの些細なことから始まった揉め事

久しぶりにレーンと出会えることを心待ちにしていたはずなのに、なにか雲行きが怪しくなっていってしまうところがなんともリアルでなにか自分にも心あたりがありそうな出来事だった。レーンの自慢したいのに謙虚ぶり、相手からそれを言ってほしそうな描写とか、誰しもその茶番めいたインチキくささは経験があるのではないだろうか。「“純粋な聞き手としての役目を全うすべし”という刑期は既にしっかり努めたはず」のフラニーが静かに反撃(と呼ぶべきもの)をしたのはだれも責められないと思う。とはいえ、あれほどの熱烈なラブレターを送ってよこし、レーンと出会う日を指折り数えていたはずのフラニーが、自分の業績に対して思ったほどの礼賛を示さないということに少なくともレーンは肩透かしのようなものを感じただろう。
このあたりから2人の揉め事は佳境に入っていくのだけど、フラニーの言った言葉に心に残っているものがある。本当の詩人とはどういうものかとレーンと言い争う場面で、少し長いので端的に言うと、「もしあなたが詩人であれば、それを書き終えた時点で何か美しいものを残していかなくちゃならない」という所である。これは私自身も感じていたことで、それは映画であり小説であり同じだと思う。詩であれ、小説であれ、映像であれ、最後にきれいなものを残すべきだと思う。これはフラニーに感じたシンパシーだった。そしてサリンジャーその人も、後に美しいものを残していく数少ない作家の一人だ。
印象的な場面がある。フラニーがレーンに自らの愛読書を説明するところだ。先程の立ち位置と真逆に、今度はレーンがまったく理解を示そうとしない。説明すればするほど2人の溝が広がっていくように感じるところでフラニーの一途さと壊れやすさが際立ち、好きな場面のひとつだ。

ズーイとバディーの手紙に感じるサリンジャーの文章の魅力

ズーイとフラニーの会話もこの小説の大事なところなのだけど、私はあえてこのバディーからの長い手紙をズーイがお風呂で読んでいるところを書きたい。なぜだか理由は分からないけど私はこの場面が好きだ。この小説を読みたい時はこの場面を読みたいからと言っても過言ではない。バディーの愛情あふれる手紙(前述したけれど、サリンジャーはこのような手紙の描写が実に多い。そしてその全ての手紙が味わい深く、ズーイでなくとも何度も読み直さずにはおれない魅力をもっている)、それを何度も読み直したからに違いない、紙自身が折り目から破れくたびれている描写、ずかずかとその小さな楽園に入り込んでくる母親、その全ての描写が一語一句無駄がなく、芸術的で美しい。
サリンジャーの魅力はこの文章の無駄のなさ、適切なところに適切な言葉がおさまり、まるで言葉自身が水を得た魚のような、本来あるべき彩りをもって輝く。文章自体が芸術のような、こういう作家はそうはいない。そしてそれを感じたいがために、また今日もサリンジャーを私は読む。

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