インザ・ミソスープというキーワードに隠された外国人と日本人の違い - イン ザ・ミソスープの感想

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イン ザ・ミソスープ

3.833.83
文章力
4.33
ストーリー
3.83
キャラクター
3.67
設定
3.50
演出
4.33
感想数
3
読んだ人
4

インザ・ミソスープというキーワードに隠された外国人と日本人の違い

4.54.5
文章力
5.0
ストーリー
4.0
キャラクター
4.5
設定
3.5
演出
4.0

目次

この作品は村上龍作品に共通するテーマがもっともよく現れている

村上龍作品にはいつも共通しているテーマが描かれています。
暴力について、社会について、日本が抱える問題についてなど。
アプローチの方法は様々ですが、インザ・ミソスープには、作者の描きたいテーマがはっきりと描かれています。

主人公のケンジは外国人相手に風俗ガイドの仕事をしている青年です。
ケンジはアメリカ人のフランクを客として案内しているうちに、彼の異常性に気づいていきます。
フランクは人を殺しまくる狂った人間です。
ですが、村上龍が描きたいテーマは殺人の異常性ではありません。

重要なのはこの作品のフランクがアメリカ人であるということでしょう。ここから見えてくるのは日本の純文学が抱えている闇です。

日本の純文学とは

村上春樹と並んで日本の代表的な純文学作家と評価されている村上龍。
近代の純文学は明治維新以後に始まったとされ、村上龍も太宰治や夏目漱石が挑んできた共通する闇を描こうとしています。
明治以前と明治以後を分けるきっかけになった事件といえばペリー来航です。
島国であり単一民族だった日本に突如やってきた外国人は、まったく新しい価値観を持ち込んできました。
周囲の人間に同調すること、遠慮すること、自己主張せずに察することを美徳としてきた日本人。
それに対し、彼らは強靱な自意識をもち、他人の顔色を伺わずにはっきり自己主張することを美徳としていました。

新しくやってきた外国の文化に対し、彼らを理解しようとしたり、彼らに打ち勝とうとして挫折してしまったのが近代文学と言えます。
明治の文豪達が抱えていた外国人コンプレックスは、太平洋戦争でとうとう爆発し、敗戦という結果とともにまた挫折してしまいます。

インザミソスープのフランクが殺人鬼であるのはミステリー性を高めるためではないでしょう。
外国人恐怖症を強調するためであり、平和ボケした日本人を批判する意味合いも含んでいます。
そして、周囲の人間に同調するのが美徳とされている日本に、他者が紛れ込んだことを象徴しています。
日本人が当たり前だと思っている安全な日常世界をぶち壊すように、フランクは次々と異常殺人を繰り返していきます。
無遠慮で欲望に忠実でよくわからない価値観を持つフランクは、まさに我々日本人にとって畏怖の対象です。

明治の文豪達と同じく、外国人に打ち勝とうとしてまた挫折してしまうのでしょうか。フランクに滅ぼされてしまうのでしょうか。
ところが、村上龍は明治の文豪とは同じ道を歩みません。
インザ・ミソスープはまったく逆転の発想で結末を迎えます。

インザ・ミソスープに隠された日本の進む道

明治の文豪達が目指したテーマは、簡単に言えば、外国人のように強い自意識を持ち、はっきりと自己主張をし、周りに流されない自分になろう、というものでした。
そうでなければ、自己主張をしない日本人と自己主張をする外国人がぶつかれば、負けるのは必ず日本人になってしまいます。
着物を捨て洋服を着て、日本刀を捨て近代兵器を持ち、チョンマゲを捨てて西洋人らしく振る舞う。
ところが、外見だけは外国人ぽく取り繕っても、結局心や文化は変えられませんでした。

そもそも自国の文化というのは必要性があって長い時間を掛けて成立したのであって、いらなくなったので捨てるなどということは簡単にはできないものです。
村上作品にも描かれている通り、島国であった日本は敵は外国からやってくるのではなく、自国の人間とどううまくやっていくかが問題だったのです。
内側に敵を作らないことが出世に必要な近道でした。
なので、日本の子供は幼いときは甘やかされ、わがままを言い、大きくなるにつれてきびしく締め付けられていきます。
日本では自己主張しなくなることが大人になるということなのです。
それに対してアメリカ人は、幼いときは厳しくしつけられわがままを許されず、大きくなるにつれてしつけは緩くなっていきます。
自己主張できる人間になることが、アメリカでは大人になることとされているのです。

常に外から敵がやってくる歴史の中にあった西洋文明は、さっさと意見をぶつけあって効率的に戦争に勝つのが生き残るための手段でした。
自己主張や無遠慮な物言いは、必要性があってできあがった物なのです。
日本人が西洋人のように強くなろうと目指しても挫折したのはここに理由があります。

インザ・ミソスープで、村上龍は日本人を西洋人化しようとはしませんでした。
明治の文豪達が目指してきた道を通らなかったのです。
日本文化の短所に目を向けるのではなく、長所に目を向けたのがこの作品の新しいところでした。
悪く言えば対人恐怖症とも言える、異様に他人同士を気にする日本人の群れ。
殺人鬼のフランクは作品の最後に、そこへと放り込まれます。
異文化の中にいたフランクはこういいます。
「まるでミソスープの中にいるようだ」
温い味噌汁に浸かっている日本人と同化してしまったフランク。
フランクが言った言葉は否定的というよりは肯定的な意味を含んでいるのでしょう。

殺人鬼の外国人さえも温かく包み込んでしまった日本人の群れ。
インザ・ミソスープは新しい純文学の進むべき道を示しています。

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