キリスト教文学の最高傑作。
イエス・キリストを書こうとした?
キリスト教文化圏では、当然、キリスト教(聖書)の影響が強い。その中で、映画のタイタニック(キャメロン監督)とか、ドストエフスキーの白痴や、ファイナルファンタジー10の主人公などは、イエス・キリストのことをモチーフにして造られた作品のように感じられる。イエスは人類の罪を背負い十字架にかかったが、このレ・ミゼラブルの主人公ジャン・ヴァルジャンも罪を背負い、衰弱するように死んでいったものの、イエスそのもののように、十字架にかかることを象徴するように死んでいった。僕はレ・ミゼラブルを読んで、作者はイエス・キリストを書こうとしたんだろうなと強く感じた。
赦すということ。
赦すということは、よく大事だというが、そうそう人を赦せるだろうか。ジャベールに追いかけられたが、空砲をもってジャベールを赦すこと。そんなことが普通の人間にはできるだろうか。しかし、最初に読んだ時は、僕自身が若く、更に物語の中で、苦しめられた末に赦したからとんでもないことだと思ったが、30代半ばになった今、現実に思うには、嫌な奴、苦手な奴がいても、何となく程よく赦し合ってうまく妥協してやっていくものだと思ったりする。政治の現場では目的のために手を握ったりする。現実には、そうそう悪人だけの人というのはおらず、まぁ、こいつはこういう奴だ、というくらいのところで収まっていく。案外、現実の人間のことは、赦せると思ったりもするが、どうだろうか?
善行を積むということ。
困っている人(コゼットなど)を助けたり、自分の代わりにつかまりそうになった人がいたら、名乗り出て自分が犯人だと言ってみたり、コゼットの夫を助けるために長い水路をボロボロになりながら歩ききったり。そういう超人的な善行をジャン・バルジャンはしたが、常に「善を選択する」ということは大事だと思った。僕はこれを読んだ当時、「良心と良識に恥じない行動をとる」ことの大切さを思った。パンがあって、目の前に人がいたら、半分分けてあげる。元気のない人を見かけたら、声をかけてあげて、肩のひとつも叩いてあげる。道徳も宗教も「善行」を推奨するが、現実の世の中で善になるか、悪におちるかというところで、踏みとどまって善を選択するということ。スピリチュアリズムのシルバーバーチの霊訓なんかには、「動機が善ならば、すべて、よし」といっていたりもする。何か、思考、発言、行動をする時に、特に人に働きかける時に、動機を善にして、善念で接していくこと。それができれば、すべてOKになっていく。人類みなが善念で動くようになれば、この世が天国みたいになる。で、その中で、このレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンの思考、発言、行動は「善行のお手本」「善行のバイブル」になりうる教科書的作品だと思った。
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