鬼のようでなく、鬼な人間
年月が経って改めて気づかされたこと
この美奥という、幽玄な気配が漂う土地を舞台にした、短編集のなかでも「けのもはら」が印象的で、はじめて読んだときから、ずっと心に残りつづけている。また、あの恐いようで心地よく酩酊するような感覚を味わいたくて、あらためて読んでみたら、登場人物の春が母親を殺したのは覚えていたものの、その内容がすっぽり記憶からぬけおちていたことに気づき、驚かされた。なので、そこらへんははじめて読んだように新鮮に思えたのだが、読むにつれ、何故忘れてしまったのか、理由がなんとなく分かってきた。当時は、子供を殺そうし、失敗したとはいえ、そのあとも平然としていた母親の心理が理解できなかったからだと思う。
理解できない親の不条理
今も理解できないのは同じものの、子供に身勝手な理由でひどい目にあわせながら、恥ずかしげもなく「しつけだ」と胸をはり「お前が立派になれたのは、育て方がよかったからだ」と自分の手柄のように言う親がいるのを、目の当たりして、信じられないようなそんな親が現実に存在するのを、知ってしまっている。とくに記憶に強く残っているのが、ある脚本家の話だ。父親の暴力に毎日、震えていた彼女は、早くに家をとびだして、懸命に努力し有名な脚本家になった。そして長い間、実家にもどらなかったものの、父親が危篤だから会いにきて欲しいとの母親の連絡で、病院に会いにいく。すると、昏睡する父親のベッドの傍らに、彼女の活躍がつづられた新聞の記事が張られていたのだった。それを見て、彼女は激しく怒ったという。昔、自分がどんな仕打をしたかすっかり忘れたように、娘の活躍を喜ぶ無神経な無邪気さに。母親がまた、そんな娘の複雑な思いも知らずに、「ずっとあなたの活躍を見守っていたのよ」というから、たまったものではなかったらしい。
人によれば、彼女の気持ちは分からないかもしれない。許してやってもいいのではないと、言う人もいるかもしれない。でも、それでは、あまりに一方的だ。子供のころは、養ってもらうために暴力をふるわれるのを、甘んじて受け、やっと大人になって、養ってもらうためと我慢しなくてよくなっても、老い先短いからと下手にでられて、水に流すよう半ば強要されるなんて。子供は我慢のしっぱなしで、親はなんら我慢をせず、いい思いだけをするというのは、不公平すぎるだろう。これでは、我慢に我慢を重ねた子供の感情の行き場がない。
我慢しつづける子供の救いのなさ
その行き場というのが「けものはら」なのかと思う。けものはらに母親をつれていった春には、その脚本家に通じるものがある。子供を殺そうとしておいて、罪悪感や後ろめたさを覚える不快感を抱えるのも嫌で、子供に許してもらって、楽になりたがっているだけの母親。「ただ、かつての自分が何をしたのか、ごまかさずに思い出してもらいたかった。恥じ入って、泣きながら言い訳でもして、反省して、謝罪。そうしたら・・・・。そうしたら許してやったっていいと思ったんだ」と春が言っていたように、子供にすれば、すこしでも親が苦しみ辛そうな顔が見れるだけでいいのに、逆に、それさえも許してくれなかったというのだから、あまりに残酷すぎる。しかも、春には母親とちがって、「母親を殺した自分が許せない」という深い罪悪感と後悔の念が残り、現世の社会では法的にもモラル的にも許されない親殺しの罪を背負うことになって、これまた、あまりに救いようがない。
そうやって、いつまでも「許されない」のはかわいそうだ。だから、許されるわけではなくても、許されないことを忘れていい、現世から切りはなされた世界に春は、留まることを許されたのだと思う。
人間は動物でさえもなく正体は鬼
子供を虐待して殺したり餓死させたりしたとの、ニュースを見るたび、思うことがある。殺すのなら、なぜ生んだのだろうと。そう人に言うとぎょっとされ、そんなことを言うなというような顔をされる。しかたない事情があった、なにも望んで殺したかったわけではないだろうと、言うわけだが、逆に親はなにがあっても、子供を殺せるはずがないのだ。種を絶やさないため、自分の遺伝子を残すためには、欠かせないのだから。そんな生物としての根源的な本能を無視してまで殺したがる親は、もののけか怨霊かに憑かれているのだと言われるほうが、納得できる。どうせ殺すくせに生むような残酷さ理不尽さも、魑魅魍魎とした異界や地獄での話のように思える。なのに、科学が進歩し、進化したはずの現代の人間社会で、説明しようがない怪異のような現象が起こるのか。野蛮な動物とはちがうはずなのに。いや、動物とちがうというのは、むしろ、現実的でない、この世のものでない生物ではないということなのだろうか。人は動物でなく、人間というその一種でもなく、鬼なのだ。そう考えると、生物として破綻しているような言動をするのも、納得ができるように思う。だから春は、化け物になるのではなく、鬼であることから解放され、生きたいとの本能のまま生きる純粋な生物に生まれ変わるのかもしれない。
小説「膚の下」との共通点
生まれ変わるといえば、けものはらという不思議な地ができた由来ともいうべき「くさのゆめがたり」という話がある。薬を飲ませたりかけたりすると、別の動物に生まれ変わるというのに、毛色は大分違うが、SF小説の、「膚の下」神林長平著を思いだした。こちらは、人が火星にいった後に、特殊な薬品によって動物を人間に変えて、地球に住まわせるという計画をたてていた。そして、人が火星から帰ってきたら、動物にもどすのだ。壊滅的に環境汚染のすすんだ地球から、一旦人類は火星に避難し、ロボットやアンドロイドが復興し環境を整えたのちに、戻ってくるという、もともとの計画の一環で、動物はべつに動物のまま、置いていけばいいのにと、普通なら思う。でも人は戻ってきたとき、他の動物が繁栄して、地球を支配いていたらと考えると、嫌なのだ。だから、はじめは遺伝子だけ冷凍保存し、生きている動物はほとんど殺すつもりでいたのが、主人公のアンドロイドが異議を唱えて、動物ではなく、動物から変身した一応人間が地球に残るのならと、人間に妥協させたのだった。人間以外の動物に支配されるのを恐れるとの発想に、そのアンドロイドが呆れたように、やはり人は、持ちつ持たれつの自然界からは、弾かれた異常な存在なのだろう。捕食動物も被捕食動物も、植物だって一方的に搾取しては生きられず、互いに依存し、必要としている。相手がいなくては困ると思うのが普通で、地上から自分達以外の生物を消すなど暴挙をする、またできてしまう人間は、動物にすればいかれていて、やはり鬼に見えるのではないかと思う。
別の生き物に変身するという以外に、この二つの作品に重なる描写がある。薬をかけて絹代が梟に変身するところだ。「膚の下」では、主人公の死にかけの部下が、生き延びるためと、薬の実験もかねて、烏に変身するシーン。無残に殺されたのと、もうすこしで死にそうだからといって、人間を動物に変えるのは、非道のように思える。でも、そう施した二人とも、一方は、荷が下りたようだと思い、一方は、もはやなにも考えないでよく空を飛ぶ元部下の烏を羨ましがっている。人間を下等なものにして、その尊厳を奪ったというような書き方はされていない。むしろ、動物より賢く、優れているとされる人間には、動物に憧れ、変身したいとの願望があるのではないかと、この二作品の奇妙な類似点を見ていると、思えてくるのだった。
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