日常に潜む「狂気と驚異」
一見淡々とした日常、そこにある作為
この作品は、観た後の余韻が永らく残る、「影響力の強い」ものだと言える。ありふれた日常だが、そこに歪みのようなものが外からじわじわと侵食するように入っていく。元々は、直輝、未来、琴美、良介の4人のルームシェアだったところに、男娼のサトルが加わる。この上澄みのハリボテを保とう、つまりはシェアしているぬるま湯に見える「平穏」を保つための手段の選ばなさが面白い。その部屋は「モデルルーム」であるかの如く、平穏と笑いに包まれるべきであるという無言のルールがあり、それを各々住む人は暗黙の了解として受け入れて暮らしている。誰しもが隠しておきたい秘密や感情の吐露(主に弱い部分)が少なからずあるが、それはルームシェアの家では「(例えあっても)無き者として、平穏に過ごす」というルールが常にある。表面的な人間関係をあくまで「保つ」ことこそ、この映画の主旨であり、それを守るための「絶対に見ないふり」の徹底が最も恐ろしい。
全てを疑いたくなるような綺麗な落とし所
淡々とした日常も、何気ない会話も、そしてそれぞれの登場人物が見せる住人以外の前で見せる「裏の顔」も、全てはラストシーンのために用意された完璧な仕掛けと言ってもおかしくはないほどに、最後のシーンの空気感には「ぞっ」とした恐怖を体感せずにはいられない。これを受け入れてしまう、自分の身の回りと比較してみたくもなるほどに。「赦すも何もその秤など最初からこちらにはない」、「こちらの『日常』を壊さないで」という空気。その「痛い」部分、つまりは深い部分には絶対に触れない、平穏を続けるためならば。こうした、上記のメッセージ性があの最後のシーンで苦しいほど濃密に伝わってくる。
汚い部分や、変化などを見せられる環境
現代のネット空間に「パレード」のルームシェア環境を重ね合わせてしまう。自分達にとって、都合の良い「環境」に一度入ってしまうと、抜け出すことの難しいぬかるみ地獄のように思える。快適だと思える環境、ただそこには拘束力もなく、「恒久性」はない。現代の特に都会の人間関係のコミュニティへのある意味警鐘を鳴らしているとも捉えられる。深い関係を築くことが苦手な若い人(私もその1人だ)や、親世代、団塊世代の方々など、観る者によって捉え方も考え方も変わる本作。私自身も、家族以外でそういった汚い部分や弱さを見せられる人間関係を築けるように生きたいと考えられるようになった、良い契機となる作品であった。
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