なりたくはないが、憧れてしまう。
嫌われ者スズメバチ、のはずが…。
「ハチは好きか」と聞かれて、「はい好きです!」と答える人間が世の中にいったいどれくらいいるだろう。ましてやスズメバチ。さらに言うならオオスズメバチ。
大きいと言っても身の丈は10cm未満、人体に比べればはるかに小さい。なのに、目にした途端「殺される」と本能的に思わされるあの貫禄。
刺されれば痛いのは当たり前、何度も刺すことができる上にあっという間に仲間を大群で呼び寄せ、「毒のカクテル」と称されるその身に持つ毒を空気中にまで散布する。虐殺部隊と呼んでも過言ではないと思う。
虫好きな私でさえも、生体には安全地帯からしかお目にかかりたくない存在だ。庭に巣ができたと言われたら、彼女たちほど「土下座でもなんでもしますのでお引き取りください」と願いたくなる存在はない。
本作はそんな「稀代の嫌われ者」オオスズメバチを主人公にした作品である。
物語は、主人公・マリアの狩りのシーンから始まる。
のっけから相手はバッタやイモムシなどではなく人間からすれば(本来は大人しいのだが)同じく危険な存在と見られているアシナガバチなのだが、マリアは大した苦もなく相手を瞬殺してしまう。
オオスズメバチのワーカーである彼女の圧倒的な強さが、冒頭のたった数ページで理解できるというものだ。
この時点では、せいぜいまだ「スズメバチこわっ」程度だろう。
しかしそのあと、マリアが巣に戻り姉のキルステンと会話するシーンになると一気に印象が変わる。
キャラクター化されると無条件に親近感を覚えてしまうものではあるが、マリアとキルステンの会話は決してほのぼのしてはいない。あくまでも狩りバチとしての戦士の会話だ。
そこでは獲物を狩る難しさや重要性に併せ、カマキリやオニヤンマといったライバルの存在も語られる。それを読むうち、あれっ格好良いかもしれないなどと思っていたら次の瞬間トドメを刺される。
「疾風のマリア」「雷のキルステン」
二つ名だ。二つ名が出てきた。これは卑怯だ。
正直に言ってしまえば「厨二病」臭いのだが、どうしても心をくすぐられてしまう。
二章冒頭でも語られるが、オオスズメバチはオーバースペックにも程があるほど戦いに特化した身体と能力を持つ生き物だ。
そこに戦士としての誇りが醸し出された台詞や周囲からの賞賛、二つ名まで揃ってしまうと、これはもう素直に「格好良い」と思わざるをえない。
嫌われ者だったはずのオオスズメバチだが、少なくとも主人公マリアには好意を抱いてしまう。
オオスズメバチは、そりゃ怖い。
けれど少なくともこの物語を読んでいる間は、それ以上に「格好良い」が勝るようになっていくのだ。
マリアはブレない。
物語の中盤、マリアは雄バチのヴェーヴァルトと出会う。
そこに至るまでにはオオスズメバチのワーカーは子どもを産めないことや、恋もせず狩りのためだけに生きていることを疑問に思う個体がいることが描写される。
マリアはそのたびに「私たちは戦士だから」と振り切っているが、ここにきて雄バチと出会うことで、もしかしてこれはと私は一瞬不安になった。
これはまさか、恋愛もの展開に舵を切るのでは。
洋画邦画問わずよくあることだが、必ずしもそんな展開に持っていかなくても良いだろうと思うアレだ。別に恋愛ものは嫌いではないけれど、展開的にそれ捻じ込む必要ある?というところでつっこまれてしまうと、ちょっと冷めてしまうというのが本音だ。
しかしそこはさすが疾風のマリア。
もし私が女王だったら、と揺らぐも一瞬。本当に一瞬。
すぐに戦士としての自覚を取り戻し、飛び立つヴェーヴァルトを見送る。
その姿には女らしさはあれど、女々しさはない。天晴れだ。小説の主人公としてキャラクター化されたとはいえ、マリアはあくまで「オオスズメバチ」の「ワーカー」なのだ。
物語ならば、ここでマリアがヴェーヴァルトと恋に落ち巣を捨てたり、奇跡で子どもを成したりしてもいいだろう。
だがそんなことはない。
オオスズメバチのワーカー、その役割から彼女が逸脱することは決してなく、オオスズメバチの生態を読者に誤解させることはない。
それは恋に限らず、彼女たちが人間に対して抱いている印象が「緩慢な生き物だが凶暴」と全く好意的でも批判的でもないことも、マリア達があくまでオオスズメバチであることを象徴している。
作中、彼女達が人間と触れ合う描写は一切ない。
当然だ。そんなものは彼女達は求めていない。こちらも求めるべきではない。関わるとろくな事はない、関わる時はどちらかが淘汰される時だ。
この点に私は感動した。
オオスズメバチを物語の主人公としてキャラクター化しながらも、マスコット化することはない。
格好良いと好感を抱かせながらも、触れ合いたい、愛玩したいと思わせることはない。
マリアに、そして物語に通っている筋は一貫してまっすぐだ。
最期まで戦士のまま駆け抜ける。
「偉大なる母」アストリッドの帝国が世代交代を迎える時、主人公マリアにもまた虫生のラストシーンが訪れることになる。
最期の戦いに飛び立つマリアの格好良さは、老いてなお天井知らずだ。
妹たちを強い雄と結ばせるためと立ちはだかり、襲い来るオスをバッサバッサと薙ぎ倒していく。ワーカーたる自分には与えられなかった未来を託された妹たちのために。
物語の中、ワーカーとして生まれながら途中から擬女王バチになったものや、若くして死んでいった者、負傷して妹たちの世話役や巣の設営に携わるだけになった者たちがいる。
だがマリアは「最期まで戦士でいたい」と願う。
そして、その願いは叶えられた。マリアは死の瞬間まで戦士で、あくまでオオスズメバチのワーカーだった。
死の淵から蘇ることもない。戦って戦って戦い続けて、与えられた寿命を全うして死んでいくマリア。死の間際にヴェーヴァルトのことを思い出す瞬間もあり、ちょっとした切なさも感じられるが悲しさはない。
「思い残すことはなにもない」、本当にそうなのだろう。
恋もせず子どもを産むこともなく、妹たちのために狩りをすることにだけ生きるオオスズメバチのワーカー。
そんな存在になりたいかと訊かれれば、それはノーだ。戦いだけに明け暮れる毎日なんて、どう考えたって自分には到底無理だし誰だってそんなの御免だろう。
仮にそんな存在に生まれついたとしても、マリアのようになんてなれないと思う。
それ故に、彼女は魅力的だ。
こうなりたいなんて微塵も思えないが、自分には到底できない生き方、そして死に方をしたマリアだからこそ憧れる。
小説の主人公として申し分なく、オオスズメバチとしても決してブレない。
そんなマリアの虫生を描いた本作。
日数にしてわずか一ヶ月強。人間ならばあっというま、彼女にとってもきっとあっというまに駆け抜けた期間。
何度でも読み返し、一本道しかないマリアの一ヶ月強の虫生を共に体感したくなる。
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