非現実的な物事が、ごく自然に、流れるように語られていく
「風の歌を聴け」より
この本は村上春樹著作の「鼠三部作の二冊目」として知られている。最初の一冊が「風の歌を聴け」だが「風の歌を聴け」を読んでいないからといってこの「1973年のピンボール」が読みにくいわけでもない。でも登場人物はほとんど同じだし、語られる文章が放つ独特さは「風の歌を聴け」でも「1973年のピンボール」でも同じように感じられるので、どちらかが気に入ったのであれば、もう1冊も好きだろうと思う。
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。」
この「風の歌を聴け」で書かれている小説の一文なんて、音楽のように流れて溶けてしまうようで、とても魅力的だと思う。エルヴィス・プレスリーのグッド・ラック・チャームやビーチ・ボーイズのカリフォルニア・ガールズなどの曲が作中に出てくるけれど、この本を読むと包まれ雰囲気が、まさにそれらの音楽の雰囲気と同じで素敵だった。
難しい解説はぬきにして
「1973年のピンボール」の良いところは「この本、面白いよ」と他人に紹介して「どんな本?」と聞かれたときあらすじを思いつく限りにしゃべると、頭のおかしいやつだとしか思われないことだと思う。
双子の少女は「僕は朝起きて、歯をみがいた。」くらいの自然さで「目を覚ました時、両脇に双子の女の子がいた。」と突然あらわれるし、「僕」は3フリッパーのスペースシップのピンボールマシンを「彼女」と呼び、なにかの罪をつぐなうかのように探しさまよい、彼女は「あなたのせいじゃない」と応えている。並行して語られる鼠の物語は、「僕」と交わることなく街を出て終わる。伝わるはずがない。
それでも好きなところを伝えると、この本がもつ「凄み」というか「オーラ」が全体を通して濃い霧のようにまとわりついていて、それが素晴らしいからだと思う。
備忘録のようだけれど
ミルドレッド・ベイリーのイッツ・ソー・ピースフル・イン・ザ・カントリーやチャーリー・パーカーのジャスト・フレンズ、ビートルズのラバー・ソウルなどが作中に出てきたのでYoutubeで聴いてみた。名前だけ知った曲をすぐ聞けるなんて便利な時代だなと思いながら。文章で感じたもの悲しさというかジェイズバーの感じが、音楽を聴いてより良くつかめたように感じた。
「同じ一日の同じ繰り返しだった。どこかに折り返しでもつけておかなければ間違えてしまいそうなほどの一日だ。」
「何故だ?と鼠は自分に問いかけてみる。わからない。良い質問だが答がない。良い質問にはいつも答がない。」
自分の今おかれている状況と、この文章の羅列がぴったり合わさって、モヤモヤした感覚を言葉にしてもらえたように感じた。僕も鼠も、心のうちを何を明かさないまま終わるのが良い。また年齢を重ねて読み返したら新しい発見ができそうだ。
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