皆さん、こっちが小川洋子の書評ですよ
小川洋子ファンの皆さん、彼女の書評ならこっちですよ
同じ小川洋子の名で「心と響き合う読書案内」という本があるが、そちらはラジオ番組の書き起こしで、彼女自身の丁寧な読書案内ではあるのだが、残念ながらラジオであるが故に彼女の魅力である巧みで謙虚な文章の魅力が無い。文章を書くのとラジオトークが違うのは当然の事ではあるが、小川洋子ファンとしては何とも消化不良をおこしそうな本である。しかし、本作は彼女の文章の魅力が全開だ。書評、エッセイ、テーマに対するライティング、いくつかのスタイルがあるが、どれも謙虚で、生真面目で、文章の細部までこだわっている。
そして何よりも、文章を書いて生きていく事への覚悟と「私は作家なのだ」という姿勢が見える。
彼女の生真面目さのルーツが見える
本書は新聞や雑誌に寄稿されたエッセイや書評を集約した形なので一貫して書かれたものではない。そのため時期、内容、テーマはバラバラだ。それだけに彼女の人となりや小説に真摯に取り組む姿勢が色濃く見える作品が多数掲載されている。
いくつかピックアップしてみよう。
小説家を志し、大学の文芸家に進級して出合った平岡先生から授かった、「将来どんな職業に就こうとも、どんな生き方をしようとも、書くことだけは忘れずにいなさいよ」という言葉に答え、一旦は就職するも作家への道を貫いた。
また、彼女自身が常に告白している、アンネフランクへのリスペクトも何度も書き表されている。「もし彼女が生きていたら、どんな小説を書いていただろう。」「明日になったら、1944年8月2日、水曜日、の日記が記されているのではと期待し」「それが叶わない夢だと知らされ、深いため息をついた」などだ。彼女は何百回も「アンネの日記」を読み、何度も彼女の展示会を訪れ、ゆかりの地を訪ねて関係者にも逢っている。彼女には及ばないと感じながらもアンネが出来なかったことを自分が引き継ぐ、というような意志を持っているのではないかと私は解釈している。
大江健三郎の文章から小説そのものを書くヒントを会得し、編集者ウィリアム・ショーンの「あなた以外にこれを書ける人はいない」という言葉に励まされ、パスカル・キニャール、村上春樹、リチャード・ブローティガン、武田百合子らの生き方や執筆スタイル、作品そのものに影響を受けながら、彼女は作家として生きていく。
おそらく、彼女をリスペクトして作家を目指していく若者がすでに多くいるだろうし、これからも多く生まれていくだろう。私自身は彼女のように文芸の教育を受けているわけではないけれど、こんなふうに美しい文章を書くことを生業にしていきたい、と思う中の一人だ。
時々見せる気弱さが小説への真摯な姿勢をうかがわせる
小川洋子という作家は内に秘める情熱は強いが、あまりそれを前面に出すタイプではないようだ。それは良いときには日本人的謙虚さとして美しく現れるが、時に弱さとして垣間見える。日記に執筆枚数0枚と書く時、「小説を書くのが嫌になっ」て武田百合子の富士日記を開く時、「作家を廃業した」夢を見る時、彼女は一人苦悶しているのかもしれない。しかし、それらは全て小説や文章に対して真摯に接しているからだ。細かい描写などは気にしない、ストーリー優先の作家であれば執筆はより速いだろう。現実にそういう作家も世の中には多い。しかし、彼女は単なるストーリーテラーではない。文章のプロであろうと決意した人なのだ。先人たちの愛すべき小説への憧れが彼女を突き動かしている。彼女は文章にすべき情景がまず脳裏に浮かぶらしいのだが、そのヴィジョンをうまく文章にできない事などにもがき苦しむようだ。すべては良い文章のためだ。
良い作品、良い文章に対しては彼女は児童文学であろうが、長編であろうが、短編であろうが、また時には翻訳であろうが、ジャンルを問わず賛辞を惜しまない。
エッセイに描かれる私生活がまた優しい
彼女のやさしさがあふれる作品もいくつも掲載されている。息子に関連した話、愛犬ラブにまつわる話、友人の子供の命を救うため募金運動に励む話、アンネ・フランクに関連して出合った人々への慈愛の気持ち、どこを切ってもその根源は愛情だ。自己の作品の理解者である翻訳家に親近感を持つのは当然かもしれないが、海外での移動時の運転手に対してまで、彼女は愛情深く接している。
読者に対しても優しい。この本の発刊に当たって書き下ろした巻頭の「図書室とコッペパン」は作者の小学校時代の図書館にまつわる思い出だが、穏やかな話の中にいかにもこれから小川洋子的書評やエッセイが始まる、と心の準備ができる。巻末の「響きに耳を澄ませる」では本紙を締めくくるようにアンネ・フランクの話から始まり、あらゆる本とそれを手に取る人々への感謝、賛辞、友愛が伝わってくる。どんな時でも自分が作家であり文章を生業としていることの覚悟を含ませながら。
美しい朝焼けに「世界が生きるに足る場所だと、証明しているみたいなきれいさだね」と愛犬ラブに語り掛ける彼女をこそ、作家の師として自分も頑張って物書きを目指していこうと意志を固くする。
おまけ
各章の表紙を「博士の愛した数式」の博士とルートをモチーフに戸田ノブコが書いている。これに気づいたときとても温かい気持ちになった。
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