安吾の歴史観 - 歴史と事実の感想

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歴史と事実

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安吾の歴史観

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目次

坂口安吾の歴史小説

「明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた」と三島由紀夫に評された坂口安吾は、歴史小説もよく書いた。織田信長と松永久秀の奇妙な友情を描いた未完作「信長」や決して天下人には成れない器量人、黒田如水を扱った「黒田如水」「二流の人」、斉藤道三が成り上がる過程でどのように変貌していくか、内面から迫る「梟雄」などが有名どころである。そのどれもが徹底した合理性を持つ有能な主人公と野心や引け目といったその根底にある心情の緻密な描写の二本柱が特徴と言える。安吾と同世代やその後の著名な歴史小説家、例えば吉川英治や海音寺潮五郎、司馬遼太郎のスタイルは基本的に通史である。それに対し安吾のすごいところは徹底して自分の描きたいところしか描かない。そして不要な箇所は全く描こうとしない。清々しいまでの捨象と「合理性こそが時代に打ち勝つ力だ」という視点に徹した彼の小説はとにかく短い。だからこそその深み、余韻はその数十、百倍の文から成る他作家のものを凌駕しうる。

歴史小説家の業

歴史小説とは何か。歴史上の人物を題材とし、史実に沿いつつもある程度の空想を織り交ぜ展開される小説の本質は何か。ひとつは純文学や時代小説とも通じる文学的精神のもとに、歴史上の興味深い人物や事件に題材を求めた結果の産物であろう。そしてもう一つは、作家自身の思想を文学として結実するのに最も良い方法が歴史上の人物に思想を憑依させることである。代表例は司馬遼太郎だ。彼の徴兵体験に基づく根強い昭和軍部への不信感、形式主義への懐疑が「司馬史観」文学を生み出した。歴史という、無数の人間の一生により構成される遠大な過去を題材とするとき、現代の価値観は薄れ、その呪縛がなくなる分、より作家は自身の思想を作品内で昇華させることができる。

歴史を題材にする点は同じでも、歴史に対して受動的な姿勢と歴史に対し積極的に自身の思想で解釈していく姿勢の二律背反を全ての歴史作家は、各々割合は違えど背負っていると言える。安吾はそういった意味で完全に司馬の大先輩である。司馬の「国盗り物語」が道三・信長・光秀の時代への挑戦、反逆を軸とする壮大な叙事詩としたら、安吾の「梟雄」は道三という自身の血脈を見つめ続け謀略に徹した男の内面のみを描く。「信長」では信長を徹底的な合理主義者の申し子として、彼が必然的に実力者として上洛し、同様の合理主義者の怪老・松永久秀と邂逅するが、彼らは合理主義という共通項で互いを瞬時に理解しあう。

歴史小説における事実認識

「歴史と事実」において安吾は、「西洋紀聞」の屋久島の記載を引いて、実際に屋久杉の密生した島を見た感想と照らして「『西洋紀聞』を読んだ何人が屋久島を神代杉に覆われた巨大な山塊と知りうるであろうか。我々は史料によって歴史を知る。けれども、史料の記載を外れた部分は全てこれ屋久島の神代杉で、神ならぬ身の知る由もない。」としている。この後、戦国の世の英雄についても彼らに対する大衆の心理や、英雄自身の思案は史料からは窺いえず、創作を是とするより他なしと断じている。そして「現代も亦歴史の一つで我々は現代に就いて決して万能の鏡ではなく、我々の周辺には屋久島の神代杉が無数にあり、詮ずれば、一個のドグマを信ずる他に法がない。さりとて、屋久島へ旅行して神代杉の密林を突き止めることは、文学の仕事ではないのだ。戦争という現実が如何程強烈であっても、それを知ることが文学ではなく、文学は個性的なものであり、常に現実の創造であることに変わりはないと思われる。屋久島が神代杉の密林でなくても構わないことがありうるのである。」と結論付ける。これは完全に歴史を自身の思想を以て切り取ることを、是とし、歴史小説の本質であると捉えた言葉である。「鉄砲」という作品で安吾は武田信玄は鉄砲を軽んじ、その研究を怠り長篠以降の衰亡につながったとしている。実際の武田家は織田家ほどの保有率ではなかったものの、かなりの数の鉄砲を所有しており川中島でも使用している。斉藤道三の国盗りも二代でなされたため、油商人からのサクセスストーリーの半分は父親の功績だというのが現在の定説であり、信長は非敵対的な寺社仏閣は重んじ、思想的には当時の中道であったという見方もなされている。しかし、史実と安吾が熱狂した合理主義とは関係ない。安吾は歴史上で強烈な異彩を放ち他を圧倒した英雄には合理主義が不可欠だと考えた(これは司馬についても同じである)。

まず先に結論を持ってきてプロットを作る演繹的な思考法は、科学においてもよく見られる。代表例が進化論だ。「最も環境に適応したものが、生存する」という進化論において実証は末梢のケースにかぎられ、未だ数多に乱立する理論を統一するに足る理論家はいない(存命の最大の理論メーカーはリチャード・ドーキンスだが、彼の死後、彼の率いるネオダーウィニズムは空中分解するだろう。それほど彼個人の力量で支えられている)。進化に対する学者のアプローチも或る数種の事例を基に仮説を組み立て、安吾のようにそれを歴史に当てはめることでなされる。「歴史上、英雄を他に打ち勝たしめるものは何か?」という命題と「生命の歴史上、何が生存の条件か?」という命題とは人類が圧倒的な時間の流れを前にある種の諦念、虚脱感と共に抱く根源的な疑問という点で共通であるように思われる。先に引用した三島の安吾評は「坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから」という言葉に続くものであった。戦中戦後の激動の中で安吾は取りつかれたように歴史を見つめることに没頭していた。

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