カフカは物語は死ねない悪夢
馬鹿の一つ覚え化した「カフカ的不条理」
カフカ作品を論じた無数の読み物には必ず、不条理だとか悪夢的だとかいう言葉が殆ど洩れなく付いてくる。今日では猫も杓子も「カフカ的不条理」という一つ覚えを振り回す。それが気の抜けたものであるか、なにかしらの新鮮な考察を含んだものであるかはこの際どうでもいい。ともかく、カフカの死後の半世紀ばかりの間に、ドイツ文学者はもちろん、心理学者も社会学者もよってたかってカフカの輪姦に勤しんでいる。いわゆる「カフカ的不条理」なるものに寸毫も悩まされたこともない善良なディレッタントさえもが、口を開けば「カフカ的不条理」を論ずる。
たしかに、彼の作品は「不条理」に満ちている(この場合、「不条理」とは、文字通り道理に合わないということだ)。
何のいわれもなく突然訴訟を受けたり、ひたすら断食していたり、朝目覚めると気味の悪い虫になっていたりして、ともかく「現実離れ」した文学の虚構空間と見られている。
だから、ダイソンの最新型掃除機で吸い込みたみたくなるほど夥しく増殖してしまったカフカ解釈者がどれほど間抜けな「不条理論」をお喋りしていても、くやしいことに、その当たり障りのない物言い自体は的外れにはなりえない。
あるいは、このように間の抜けた虚ろな表情で「不条理」を繰り返す人間が犇めくこの光景こそ、かりに蘇ったカフカの眼を通せば「不条理そのもの」に映るだろうとも言える。そのときのカフカの失笑具合は、察するに余りある。
生前カフカが公に発表した作品で今も読まれ続けている作品は、いくつかの薄い短編集とあの『変身』だけだ。
「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気がついた」(原田義人・訳)という出だしで知られるあれだ。
私は、カフカの作品のなかに、一種の途方もない息苦しさを感じ取る。気が付けば既に生きている、というよりもそこに存在している、あるいは、存在させられている人間(本当は人間でさえない)が避けることに出来ない「洒落にならぬ」虚しさ(あるいは切迫感)を、彼の鋭敏に過ぎる文学的中枢神経は嫌でも感じ取らざるをえなかった。
カフカの物語には色っぽい湿り気が欠けている。ロマンの香気もない。ましてスターバックスで暇つぶしに楽しめるような娯楽の読み物などではありえない。
カフカ作品の心理描写(さしあたり慣例的にそう呼ぶなら)には、「人間的」な重みが乏しい。そう思うのは私だけではないはずだ。語るのが主人公(ここでもとりあえず慣例的そう呼ぶ)だろうが脇役だろうが、言葉に今一つ重力が働いていない。無内容(ナンセンス)だからではない。おそらく、無情緒だからだ。それらの言葉は、夢のなかで腹話術師の舞台を見ているような気にさせる。
カフカが創作を通して格闘した「現実」は、不安だとか実存主義だとかいう硬質な言葉を弄んでどうにかなるようなものでもない。
カフカはユーモア(いささか奇形化したブラックユーモアだろうが)を知っている。それは彼の寓話風の物語(岩波文庫にある)を読んでも分かるし、今扱っているこの短編集にもユーモラスなくだりはすくなくない。
絢爛たるカフカ的発想は、いつも底なしで胸苦しい基調音を引きずりながら展開される。
カフカは、自分の眼の前にある「現実」には救いなど無いことを知っていた。とにかく、眼の前の「日常世界」はどうにもならぬほど「わけがわからなかった」。
さりとてそれは感情的な絶望に裏付けられたものではない。天国も無ければ地獄もない、乾ききった世界だ。「裁き」の場もなく、そもそも裁判官さえいなかった(『審判』のヨーゼフ・Kは自分が逮捕された原因を探し続ける)。
カフカは、自分が死ねないということを、漠然とながら直感していたのではないか。そしてそのために苦しんだ。苦しみぬいた。他人と共有することの不可能な、この問題を巡って。悶絶寸前にいたるまで。
彼のそうした直感が端的に表現されたのが、「狩人グフラス」という作品だ。
狩人グフラスは死ねない
思うに、カフカにとって最悪なのは、「死ねないこと」だった。「死は不可能である」。彼のこの重苦しい命題を、煩瑣な哲学的推論によって証明したのではなく、直観的に捉えた。考える能力のある人は考えてみてほしい。たとえば、死が「意識の消失状態」とするなら、死んでいる間の「何ものか」はその「死の状態」を感知しえない。つまり意識されない。してみれば、意識だけが永遠にそこにある。「何ものかの感覚」はずっとこれからも「そこにある」。死は絶対に経験されないが故に、意識しか存在しないのである。愚昧の対極にあるカフカは、そのことを(不幸にも)全身で理解していた。
「狩人グフラス」は、どこかの市長と、運ばれて来た棺台の上にいる男との、謎めいた会話で構成されている。
この棺台の男は自分のことを「狩人グフラス」と名乗る。そして彼は自分が「死んでいる」身でありながら、「生きていると言えなくもない」と曖昧なことをいい、次のように続ける。「三途の川を渡りそこねた。渡し舟の船乗りが舵をとりまちがえたのだ。おいらの国は美しい。景色に見とれていたのかもしれない。船乗りがうっかり方向をまちがえたばかりに地上に舞いもどってきた。それからというもの、おいらの舟はこの世の水辺のさまよっている。山に育った人間が、死んでからというもの、水界を流れているわけさ」
カフカはなぜ、自分の死にえないという直感の胸苦しさを、狩人に投影したのだろう。山育ちの人間を水上に漂わせたのだろう。
カフカも死ねない。何ものも死ねない。
饒舌であればあるだけゲスの勘繰りになる。もう止める。カフカ論というのは、やはり、何を書いても、知的遊戯以上にはならない。濫造されるカフカ論はもう沢山だ。直接作品だけを読めばいい。しかつめらしい顔したドイツ文学者がカフカを真剣に論じているのも見るに耐えない。
カフカはそもそも自分のためにしか書いていない。彼は自分の悪夢や息苦しさを生涯白紙上に書き散らしただけだ。すでに眼の前にある「捉えがたい現実」を、隠喩や寓話を通して、少しでも消化しやすいものに変えようとしたに過ぎない(それが成功したかどうかは彼だけが知っている)。
カフカは死ぬことを恐れたのではない。死ねないことだけを恐れた。この場合の「死」は、日常にありふれている死よりもずっと広い。
意識ある何ものかは、この不気味な世界を永遠に漂流し続ける。様相は変わっても、眼の前の何ものかは永遠に、文字通り「終わりなく」そこにあり続ける。
カフカや狩人グフラスだけ問題ではない。この「死ねない病」は、取りもなおさず、あなた自身の問題でもあるし、私自身の問題でもある。既に存在してしまっているという病気、これからも沈着することのない意識を持て余し続けなければならない呪い。
狩人グフラスは独り言のように語る。「ここでおいらが何を書こうと、誰も読んでくれない。誰ひとり助けにきたりもしない。助けてやれと声が下っても、家々の戸口は閉ざされたままだ。どの窓も閉じられたままだ。ひとりとしてベッドから起き上がらない」
こうした物語は、カフカの持病ともいえる「死ねない病」を僅かでも癒せたのだろうか。
すくなくとも彼の作品は、私には一縷の慰めにもならない。勿論、多少の手応えはある。途方も無く空ろな手応えだけれど。
カフカの受難は、誰も知らない方がいい。生涯を愉快に過ごしたいなら。
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