三島由紀夫の作家としての思想や美意識を表現した、戦後日本文学の金字塔「金閣寺」
三島由紀夫の戦後の日本の純文学を代表する名作「金閣寺」は、金閣寺放火事件の犯人、林承賢という少年僧をモデルにした小説ですが、事件や人物は、小説の基礎的な材料を提供しているだけにすぎず、三島の作家としての思想や美意識を表現した、彼の代表作で、美文家の三島の華麗で、美しく堅固に構築された日本語の文体を味わう小説でもあると思います。
このどこをとっても、華麗で美しい日本語の表現で満たされている小説の中でも、特に好きな一節-----。
「午後も雪であった。私はゴム長靴に、肩から鞄をかけたまま、参観路から鏡湖池のほとりへ出た。雪は暢達な速度で降った。子供のころよくそうしたものだが、私は今も天へ向かって大きく口をあけた。すると雪片はごく薄い錫の箔をうちあてるような音を立てて、私の歯にさわり、さて、温かい口腔の中へ、隈なく雪が散って来て、私の赤い肉のおもてに融け浸み入るのが感じられた。そのとき私は畢竟頂上の鳳凰の口を想像していたのだった。あの金色の怪鳥の、なめらかな熱い口を。雪は私たちを少年らしい気持ちにさせる。まして私は年を越しても、まだ十八歳なのである。私が少年らしい躍動感を身内に感じていたとしても、それが嘘になろうか? 雪に包まれた金閣の美しさは、比べるものがなかった。この吹き抜けの建築は、雪のなかに、雪が吹き入るのに委せたまま、細身の柱を林立させて、すがすがしい素肌でたっていた。どうして雪は吃らぬのか? と私は考えた。それは八つ手の葉に障るときなど、吃ったように降って、地に落ちることもあった。しかし遮るもののない空から、流麗に落ちてくる雪を浴びていると、私の心の屈曲は忘れられ、音楽を浴びているように、私の精神はすなおな律動を取り戻した。」
年を越しても、まだ十八歳とあるように、十七歳と考えられる少年が、初冬の雪の降る中に立って、雪の金閣を仰ぎ見ている場面ですが、この"私"と"金閣"と"雪"の三者の相互関係の中に、三島の金閣に対する美学、美意識が見事に表現された、この小説の白眉ともなる見事な一節だと思います。
この場面は、第二次世界大戦の敗戦後の昭和21年暮れの頃で、この一節の少し前に、「金閣の拝観者は、軍服や作業服やもんぺ姿の、つつましいまばらな客でしかなかった。やがて占領軍が到着し、俗世のみだらな風俗が金閣のまわりに群がるに至った。」という風俗描写があり、戦後の混乱の続いている年の暮れの、初雪の降った土曜日の午後という時代設定になっています。
敗戦の衝撃、荒廃、価値観の逆転---それまで正しいとされていたものが一夜にして、不正、無価値となり、不正なるものが正、価値あるものに逆転した---を強いられた敗戦直後が、小説の舞台になっています。
敗戦が日本人に与えた、戦争からの解放感と同時に、当時の日本人が経験した、かつてない程の秩序の混乱は、すでに十七歳という傷つきやすい青春を生きつつあった、少年の人生に大きな影響を与え、そういう体験を背負っている主人公として三島は、ある意味、"自己の美意識の代弁者"として描いています。
この主人公の少年は、非常にというか、ある意味、異常なくらいの耽美的な性格を持っています。
また、この少年の特性として、「どうして雪は吃らぬのか?」という言葉が吐かれています。
雪に向かって、なぜ少年は、雪が吃らぬことをいぶかるのか? 三島は、少年の忘れ去りたい心のひけめを"心の屈曲"という言葉で表現し、その"心の屈曲"を天から"流麗に落ちてくる雪"と対比させる手法で描いています。
裏返せば、雪は流麗に落ちてくる吃らぬ存在であるのに、自分は吃りであるために、心の屈曲を意識し続けなければならない。
雪は吃らないのに、不幸にも、どうして自分だけ吃りという心のひけめを持たされ、悩まなければならないのかという、厭世的な詠嘆の心を見事に表現しています。
そして、全身に雪を浴びているうちに、いつしか少年は、心の屈曲から解放されていきます。
吃りという心の屈曲を持つ、主人公の"私"の金閣への憧れ、雪の降りしきる速度に抱く羨望、口を天に向かってあける潜在意識の描写から、やがて素直な律動を精神に回復するに至る過程の、計算され尽くした見事に構築された構図など、鬼才・三島由紀夫の面目躍如たるものがあると思います。
超絶的な"金閣の美"に惹かれ、やがて"美の完成を美の滅亡つまり放火"によって果たすに至る、美の使徒"私"の思想は、単に異常心理の少年の物語としてではなく、戦争下の終末意識から敗戦という秩序の崩壊の中を生きなければならなかった日本の少年の、あるひとつの青春の思想を色濃く反映させているのであって、そこにこの「金閣寺」という小説の主人公の、"時代と切り結んだ人間の根源的な姿"があるのだと思います。
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